お大事にね

 

 

「イテ」

夕食時の渋川のファミレスでのこと。
山のような皿を前に陽気にしゃべっていた啓介の顔がふいに歪んだ。
仕事疲れもあってか、それまでほとんどぼーっと気の抜けるような相槌を打つだけだった拓海の目が、
ふっと啓介に焦点を合わせた。

「どうしました?」
「何でもねぇよ」

あくまで『何でもない』顔をしてみせるものの、額にはうっすらと汗が浮かんでいる。それまでの元気は
どこへやら、おしゃべりはぴたりと止み、思い出したように食べることを再開した手にいつもの勢いはなく、
やけに慎重に口に運んでいる。

啓介が黙ると会話も途切れる。拓海はあまり自分から話題をふる質ではないので、啓介といる時も
ほとんど聞き役だ。
途端に静かになったテーブルで二人は黙々と皿を空ける。

デートとも言えないような短い、だが貴重な時間。 拓海がDの遠征以外の日も家業と仕事で忙しいために、
二人きりでまる一日出かけられる日は月にそう何日もない。だから夕飯を一緒に食べるだけのために、
啓介はちょくちょく渋川にやってくる。

拓海とて啓介に会えるのはうれしいから、いつも出向いてもらうのも悪いとおもいつつも仕事帰りの
この時間を楽しみにしていた。これが他の相手だったらとっとと帰って寝たいと思っただろうが。

だが三日ぶりくらいに会った啓介は、何だかいつもと様子が違っていた。
元気よくしゃべっていたかとおもえばふいに黙り込む。不機嫌そうに眉を寄せ、何かを堪えるように
拳をぎゅっと握り締める。
そんな啓介を、拓海はいつものぼーっとした表情で眺めていた。

 

 

「啓介さん」

ファミレスを出た後に向かった秋名湖畔の自販機の前で、拓海は正面から啓介を見上げた。
拓海の分のコーヒーだけ買った啓介は、やけに真剣な表情をした彼にそれを手渡す。

「口ン中見せてください」

藪から棒の申し出に、啓介はなぜかぎくりと顔をこわばらせた。

「・・・ンだよ、いきなり」
「虫歯でしょう」

あまりにわかりやすい反応に、拓海の疑念は確信に変わる。
それでも「んなもんねえよッ」と往生際悪く叫ぶ啓介の口にやにわに人差し指をつっこむと、
自販機コーナーの明かりの下、問答無用で口を開けさせた。

「うががっ――ッ!(何するんだこの野郎!)」
「うわ、こんなになるまでよく放っておきましたね」

涙目で抗議する啓介の口の中を両手でこじ開けながら、拓海は冷静に観察する。
やがてやっと開放されて思わずあとずさる啓介に、しごくもっともな質問を投げかけた。

「何で歯医者に行かないんですか?」
「・・・けっ。こんなもん医者に行くまでもねぇよ」

気合で治してやらあ。と開き直った啓介に、拓海はしばし言葉を失った。

「・・・つまり、歯医者に行くのが怖いんですね」
「んな訳あるか!ただオレは医者が嫌いなんだよ!」

大病院の息子にあるまじき台詞だが、それはさておき。歯医者が怖いのも嫌いなのも
つまりは同じことである。

(あんたいくつだよ・・・)

拓海は深いため息をついた。
そりゃあ歯医者が好きな奴などそういないだろう。だがちいさな子供ならともかく、
大人なら歯が痛み出せばあきらめて治療してもらいに行くものだ。ひどくなれば
より苦しむのは自分なのだから。
だが啓介にこの理屈は通用しないらしい。
もっとも、このまま放っておいても、耐えられないほどひどく痛むようになれば
そのうち自分から歯医者に駆け込むだろうけれど。でも。

 

「じゃあこうしましょう。虫歯を治すまでキスはなしってことで」

 

これからちょっと秋名を流しましょう、とでもいうような口調でのんびりと切り出されて、
啓介は呆然とし、次に慌てた。

「んだよそれ!関係ねーだろ!」
「知らないんですか?虫歯ってうつるんですよ?オレまで虫歯になるのはゴメンですから」

しれっと言ってのける拓海にんなわけあるか!とわめくも、否定するだけの医学知識を
啓介は持っていない。(あくまで痛んでいない方の奥歯で)ぎりぎりと歯軋りする啓介に
拓海はさらに追い討ちをかけた。

「それに、歯医者にも行けない臆病な人とキスなんかしたくないし」

ふいと顔を背けてそっけなく言った瞬間、空気がぴしりと凍った。
あまりに長い沈黙にちょっと言いすぎかな、とちらりと啓介をうかがえば。
一変して険しい顔をした男が目の前にいた。

「・・・オレを臆病だと」
「あ・・・えっと・・・」

拓海の言葉は啓介のプライドをいたく刺激したらしい。妙に静かで低い声に、拓海は
こころもちあとじさった。

「・・・わかった」
「え?」

さすがに一発くらうかもしれないと覚悟していた拓海は聞き間違いかと目を見開く。

「オレはDのエースだ。歯医者なんざ怖くねぇ!即効で治してやるから首を洗って待ってろよ!」

わけのわからないテンションでそう宣言すると、啓介はすっかり「ライバルの顔」で
拓海にびしっと人差し指をつきつけた。

 

 

そして四日後の早朝。
いつものように豆腐の配達を済ませた帰り、拓海は坂の途中に止まっているFDに気づいて車を止めた。

「治したぜ」

といってつきつけられたのは高崎の歯医者の診断書。
これで文句ねぇだろ、と早速顔を近づけてくる啓介に、拓海は口元をほころばせた。

確かにそれは啓介のためだったのだけれど。
せっかくわずかでも一緒にいられる時に、痛みに気をそらされるのは嫌だったのだ。
今週末は久々の休みの日。これなら心置きなく楽しめそうだ。
ひそかな期待に胸を弾ませつつ、これまた久々の唇の感触に拓海はうっとりと目を閉じた。

 

おわり

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