ある情報部員の優雅な朝

 

 

ジリリン、ジリリン・・・ジリリン、ジリリン・・・

ロンドン郊外、ウォーリック・アヴェニュー。 手入れの行き届いた庭を持つこの家の電話が鳴ることはめったにない。この家の主人は月に数日しか帰ってこないし、彼の知人達は彼と連絡をつけるならもっと確実な方法を選ぶからだ。

電話は鳴り続ける。この家の主は――実は電話のすぐ近くにいた。

「はっ・・・あ・・・あッ・・・」

カーテンごしに朝のさわやかな光が差しこむベッドルームで、高耶は逞しい腕に両足を抱え上げられ、容赦なく追い上げられている最中だった。熱に潤んだ瞳が何度となくサイドテーブルの電話を捕える。汗にしっとりと濡れた腕が受話器に伸びる。だが取り上げる寸前に男の腕に絡め取られた。電話が鳴りはじめてから何度かくりかえされているやりとりだ。

「直江――電話」

抗議しかける口を、直江は荒い息と共に塞いだ。

「――こんな状態で出てどうするんですか。そのいやらしい声を誰かに聞かせるつもり…?」

「ッ、急用かもしれないだろ・・・ッ」

出るまであきらめないといわんばかりのベルの音に、直江だっていいかげん苛立っている
だろうに、あくまで行為を中断しようとしない。

「大体、何で寝室なんかに電話を置くんですか。無粋もいいところだ」

「オレはおまえと違って忙しいんだ」

めったに帰らないくせに、と毒づく言葉を無視して高耶は男の手を払いのけ、受話器を取った。

「――もしもし」

揺るやかに繰り返される抽挿に嬌声を噛み殺しながら、吐息混じりに応答する。

『・・・・・・・・・』

たっぷり5秒ほどの間があった。

「?もしもし?」

訝しげに眉を寄せた高耶は、しかし次の瞬間凍りついた。

『・・・・・・お楽しみの最中悪いわねぇぇ、アーサー』

名乗らずともわかる女の声には、言葉とは裏腹にさんざん待たされた怒りが滲み出ている。

『朝からそんなやーらしい声で。一体どんな美人をたらしこんでいるんだか』

「ねーさん!?どうして」

直江の眉がぴくりと跳ね上がったが、高耶は構ってはいられなかった。

『どうしたもこうしたもないわよー!昨日の夜から通信機にさんざん連絡入れてるのにちっとも出ないじゃないの。』

「――えっ」

通信機。それは高耶の腕時計に内臓されている。いつ情報部から緊急の連絡が入るかわからないので、時計は武器同様、必ず身につけるか、手の届くところに置いている。
そう――昨夜はベッドの中で外してベッドヘッドに置いたはず――だが。
…ない!

高耶は焦ってサイドテーブルや衣服の散らばった床を見回し――それから思い当たって、涼しい表情をしている直江を睨めつけた。

「…どこに隠しやがった」

大の男でも縮みあがるような獰猛な視線にも、直江はまったく悪びれない。

「鳴るとうるさいので、バスルームに置いてきました」

「!てめえ――」

『ちょっとアーサー、痴話喧嘩は後にして。急を要する事態なの。直ぐに本部に来てちょうだい』

「わかった。30分で行く」

『彼女と別れを惜しんでいる暇はないわ。15分で来て。わかったわね』

返事も待たずに切れてしまった電話を しばし呆然とながめていたが、やがて直江に向き直ると怒気をはらんだ声で言った。

「――どけッ!」

 

それから5分後に出かけるまでの高耶はちょっとしたみものだった。バスルームに駆け込み、文字盤の一部が点滅している腕時計を見て溜息をつき、一分でシャワーを浴びた。水滴が滴る髪をブラシで適当にとかし、歯を磨き、下着姿でクローゼットを漁ってシャツとズボンを身につけた。寝室に戻って床に散らばった衣服の中からホルスターと吊り紐をすくい上げて肩に掛け、枕の下のベレッタを差して上着を着た。バイクで行きたいところだが、先刻までのアレで乗るのはキツイ。車で行くしかないか…慌しなく考えながらそのまま寝室を出ようとして、やっと思い出したように振り返った。

直江はベッドの上で上半身を起こしたまま、おもしろそうにこちらを眺めている。高耶は鍵の束から一つを抜き取ると、直江に放った。
それは銀色の弧を描くと、直江の掌におさまった。

「戸締りしてけよ。じゃあな」

バタンと玄関の戸が閉まり、エンジン音が聞えるまで、直江は呆然と手の中の鍵を見つめていた。やがて車の音が遠ざかり、家に静寂が戻った。

別れ際はいつもあっけない。2,3時間後にでも戻って来るような気軽な口調だったが、きっとまた一ヶ月くらいこの家には帰ってこないのだろう。

直江とて暇人ではない。本当は夜明け前に帰るはずだった。いまごろ王宮ではウマルが頭から湯気をたてながら政務を代行しているだろう。

高耶にとってはそれこそ深い意味はなかったのかもしれない。
だが掌にあるのは、「また会える」という、確かな約束。

「――いつか、あなたを攫いに来ますよ」

直江はくすりと笑って銀色の鍵にくちづけた。

 

おわり

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