スローステップ
1
夜明け前。
光が射す前の蒼い闇は、いつもの街を見慣れないものに見せる。
静まり返った住宅街の一角から、小柄な影がそうっと抜け出した。
自宅の門を音を極力立てないように閉めると、川に向かって走り出す。
まだ誰もいない川沿いの歩道を走っていると、ペースが乗ってきたころに
空が白んできて、朝一番の光を受けた黒美嵯の川面が輝きはじめる。
セナが早朝ランニングを始めたのは、部活の中だけでの練習量ではとても足りないと感じたからだ。
ヒル魔は何かと口実をつけては、アイシールド21が練習に参加するように仕向けているが、
表向きは主務ということになっている以上、「セナ」がいつも部活にいないのはおかしい。
練習内容はとても「物足りない」なんて言えるような代物ではなかったが、
他のメンバーより練習時間が短いのが、歯がゆくてならなかった。
もっと走りたい。
もっと速く。
もっと――
橋の手前で折り返し、来た道を再び走って戻っていると、
すっかり明るくなった土手の向こうから、スウェット姿の男が駆けてくる。
それほど大柄ではないが、鍛え抜かれた身体であることは服の上からでもわかる。
ちょうどセナと同じくらいのペースでこちらに向かってくる男の精悍な顔に、
セナの心拍数が跳ね上がった。
(進さん)
引ったくり事件以来、あの場所で進と会うことは一度もなかった。
毎日同じ時間に同じトレーニングをしているわけではなく、
それはセナだけでなく進も同じだろう。
『決勝で待つ』
それでも、セナを突き動かしているのは進のあの言葉で、
ランニングや買出しに出るたびに、つい、いるはずのない人の姿を捜していた。
だから、自主的にはじめた早朝ランニングで、進とすれ違うのが当たり前になるなんて、
思いもよらなかった。
毎朝、同じ時間に、同じ場所で。
ペースはそのままで、目が合ったらセナはぺこりと頭をさげる。
進はそれに頷いて応える。ただそれだけ。
初日に遇った時から、足を止めることも、声をかけることもなく、
お互いの姿を認め、それを最低限の動作で伝えるだけだけれども、
セナにとってそれは何よりも大切なひとときだった。
すれ違うと、セナのペースは自然と上がる。
一日も早く、追いつきたい。
一日も早く、強くなりたい。
約束の日に、進さんと戦うために、
他の人になど、負けていられない。
中学時代から習慣にしている朝のランニング中に、
見覚えのある小柄な姿を見かけたのは、
例のひったくり事件のしばらく後だった。
(アイシールド21)
生まれて初めて目にした、光速の走り。
触れもしないスピードには、どんなパワーも通じない――
それまで己の慢心を戒めるだけだったその言葉が、
あの瞬間、現実となって進の前に形を成した。
初めて自分を抜き去った男。
ようやく出会った、好敵手と呼ぶにふさわしい相手が決して幻ではなく、
生身の人間として再び目の前に現れた時、
今まで感じたことのない高揚感を感じつつ、彼と決戦の約束をした。
それ以来、部活中にランニングに出る時には、気がつくと行く手に
彼の姿がないかと捜してしまっていたが、進とて同じ時間に走りに来ている
わけではない。そうそう同じ偶然は起こらなかった。
やや一方的な宣戦布告を、彼が確かに受け取ったと確認したのは、
朝のランニング中に、向こうから走ってきた彼の目を見た時だった。
小さく頭を下げつつも、まっすぐに進をみあげてくる。
おそらく進が彼を見る目と同じ、挑む男の目だ。
毎朝、同じ時間に、同じ場所で。
すれ違う一瞬、視線を交わして、自分が唯一認めた相手が
自分と同じ気持ちでいることを確認する。
はっきりと自覚しているわけではなかったが、もはや日常となった毎朝のその一瞬が、
進にとっていつしか欠かせないものになっていた。
すれ違うと、進のペースは自然と上がる。
アイシールド21、彼はまだ成長途上だ。
おそらくこの先、試合を重ねるごとに、驚くべき早さで強くなるだろう。
約束の日に、より手ごわくなった彼と戦うためにも、
今の倍は強くなっていなければならない。
ペースは緩めず、交わす視線に互いの想いを認めながら交差する。
決戦の日まで、自分たちは幾度もこうして言葉もなくすれ違うのだろうと、
二人ともいつしかそう思っていた。
つづく
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