スローステップ

 

10

 

8月31日。
久々に帰ってきた自分の部屋で、セナは荷物も解かずにラグの上で正座をして、緊張した面持ちで携帯電話を見つめていた。
ディスプレイに表示されているのは、進の自宅の電話番号。
まだ帰ってきていないかもしれない。進のことだから、合宿が終わっても学校でトレーニングしているということもありうる。
いないかもしれないけれど、それでも。
せめて、自分が帰ってきたことだけでも伝えたい。
毎日、彼のことを考えていたけれど、日本に帰ってきたら、もう逸る気持ちが抑えられなかった。

意を決して発信ボタンを押す。コール音と共に聞こえてくる、自分の心臓の音がやけにうるさかった。
コール音が途切れ、上品な女性の声が応対した。進の母親だろう。

「あ・・・あのっ、こ、小早川といいますけどっ・・・・せ、清十郎さんはッ」
『はい、ちょっと待ってね』

(嘘っ、いるの!?)

いないと言われたら伝言を、とそればかり考えていたので、まだ日も高いこの時間に彼が自宅にいるとは想像していなかった。
どうしよう、何を言おう、と慌てているうちに保留音が途切れ、『はい』と低い声が応答した。
セナはうっすらと汗をかいた手のひらを、膝の上でぎゅっと握りこんだ。

(進さんの声だ・・・!)

『小早川?』
「あっ、はい!」

訝しげな声に、セナはようやく声を出した。頭が真っ白になっていて、何を言ったらよいのかわからなかったが、進はとりあえず声を聞いたことで安堵したらしい。

『帰ってきたか。今は家にいるのか?』
「はい」

久しぶりに聞く進の声に胸がいっぱいになって、何を話せばいいのかわからない。さっきまであれほど話したいとおもっていたのに。
電話というものは、とてももどかしい。話したいことはいっぱいあるのに、なかなか言葉が出てこない。
そして、電話口での沈黙は、土手で並んで座っている時の沈黙とは違って、とても気まずい。
こんな電話じゃ、この人に悪い。
明日の朝、また一緒に走りましょうと、とりあえずそれだけ伝えようとようやく決心したとき。

『小早川。今から家を出られるか?』

電話の向こうから、思いがけない申し出をされたのだった。

 

 

 

15分後。二人は電車の中で、ドアを挟んで向かい合わせに立っていた。
駅に現れた進は見慣れないジーンズにTシャツの姿で。スウェットとユニフォーム姿しか見たことがないセナの目には、腕組みして姿勢よく立っている彼はまぶしかった。久しぶりに顔を合わせる照れくささもあって、なかなか彼の顔を正視できずにいる。
一方で、進はセナのハーフパンツから伸びた脚をじーっと観察していた。
そうして会話もほとんどないままに一時間ほど電車に揺られ、降りた駅からバスでさらに20分ほど行った先には。

「うわぁ・・・」

まさに、見渡す限りのひまわりが、夕日を受けて黄金色に輝いていた。

「やはり、時期は過ぎてしまったようだな」
「いいえっ、まだ咲いている花もありますから!」

確かに枯れてしまっている花が多いが、今日ここに来れただけでも十分だった。
進はちゃんと覚えていてくれたのだ。それがセナには、何より嬉しい。

「進さん、迷路に行ってみてもいいですか?」

ひまわりに負けないくらいに顔を輝かせて、セナは進の手を取ってひっぱった。
先程まで電車でもじもじしていた彼とはまるで別人だ。
子供のようだな、と思いつつも、進はわずかに目元を和ませて、急かすセナについていった。

もう見頃を過ぎてしまっているためか、セナたちの他に客はいない。
すっかり興奮していたセナが我に返ったのは、自分より進より背の高いひまわりの柵でできた迷路を、ひとしきり堪能した後だった。

「あわわっ、す、すみませんっっ」

それまでずっと手を繋いでいたことに気がついて、慌てて離した。
どさくさにまぎれて、なんて馴れ馴れしいことを、とセナの顔が赤くなる。

「それほど喜んでくれるのなら、来た甲斐があったというものだ」

セナを見つめる進の表情は穏やかで優しい。その顔を、セナはなぜか胸が締めつけられるような気持ちで見上げていた。

「・・・デス・マーチに参加するかどうか迷ったとき」

ぽつりとそんな言葉がこぼれ出た。

「このまま帰れば、楽しいことがいっぱいあるんだって思いました。もしかしたら進さんとも出かけられるかもしれないって。
でも、僕はどうしても進さんに勝ちたかった。たとえあの特訓で再起不能になったとしても、何もしないで後悔するよりはマシだって思ったから」

だから、とそこまで言って言葉につまったセナの頭に、ぽんと手を置かれた。
大きくてごつごつしていて、力強い、セナの手とはまるで違う、大人の男の手。

「ずいぶん鍛えたな。初めて会った時から良い脚をしていたが、ますます理想的な筋肉のつきかたになった」

見ただけでわかる。アメリカに行く前に比べて、脚力もかなり上がっているはずだ。この脚ならば、瞬間的にでなく、いつでも最高速を出せるかもしれない。
進もまだ届かない、光速の世界を知る男。彼は自分の脚が敵チームにとってどれだけ脅威であるかを果たしてわかっているのだろうか。
夏の最後の光を浴びようと上を向くひまわりのように、セナは少し日焼けした小さな顔を進に向けて、進だけを一心にみつめている。
『あなたと戦いたいから、ここまで鍛えてきました』ひたむきな目が雄弁にそう語っている。

自分が最強と認めた好敵手。そして、セナにとっての自分も、常に最強でありつづけたい。
闘志と愛おしさ、そして独占欲までないまぜになったこんな感情は、今まで知らなかった。
小さな頭に置いていた手を、頬へと滑らせる。

「秋大会を勝ち抜く実力は、夏の間に培われる・・・それでこそ、俺のアイシールド21だ」

ひまわりの柵の間から射しこんで、セナの顔へと降り注いでいた、この日最後の太陽の光がふいにかげった。
何が起こったのかわからず目を見開いたままのセナへ、その影は近づいてきて。
思いのほか、やわらかく暖かい唇が、セナの唇をやさしく塞いだのだった。

 

つづく

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