スローステップ

 

11

 

夏の終わりの夕日で全てがオレンジ色に染まった、ひまわり畑の迷路の中で、生まれて初めてのキスをした。

ファーストキスの相手が進だったことは、別段何の違和感も感じなかった。
男にキスなんかされたら、もっとショックを受けるはずだけれど、

(進さんだからかな)

その鍛え抜いた身体のどこもかしこも鎧のように硬い、とおもっていた進の唇は、意外にもやわらかく温かで。
軽く触れただけの唇が離れていった途端に、夕日の残照がカッとセナの顔を灼いた気がした。

その後、バスに乗る間も、電車で一時間揺られている間も、二人の間には一言の会話もなかった。
普通なら、それだけ長い時間沈黙が続いたら気まずいだろうが、セナはどきどきとうるさい心臓の鼓動と、隣に座っている進とキスをしてしまったという事実に頭がいっぱいで。ちらりと進を盗み見れば、彼は彼で、心持ち視線を落として、自分の思いに沈んでいるようだった。
すぐに視線を戻してしまったセナは、進がそれから苦しいような目でセナをみつめていたことなど、知る由もなかった。

それからどうやって家に帰ったのか、セナはあまりよく覚えていなかった。かろうじて挨拶はしたと思うが、進の顔をまともに見れず、逃げるように電車を降りて・・・気がついたら自分の部屋でぺたんと床に座り込んでいた。

自分の唇に触れてみる。ここに、進の唇が触れたのだ。
胸に手を当てる。進の唇が触れたあの瞬間から、自分でもおかしいんじゃないかとおもうくらい、心臓が早鐘を打っている。
進はなんであんなことをしたのだろう。
ただの挨拶?ライバルに対する励まし?それとも試合の後によく選手同士が抱き合う、あれ?
キスをした後も、進の様子に変わりはなかった、ように思う。とすると、やはり深い意味はなかったのかもしれない。
それなのに、「ただのキス」にこんなに動揺している自分はおかしいんだろうか。

触れられた唇が熱い。唇だけでなく、顔全体が熱でもあるんじゃないかと思うくらい火照っていた。
頭に浮かぶのは今日の進のことばかり。明日から学校が始まるというのに。
そう、明日からはまた進と早朝ランニングをするんだ。一体どんな顔をして会えばいいんだろう。
彼のようになんでもない顔をしていられればいいのだけれど、もし彼の顔をみて今日のキスを思い出してしまったら・・・。

「うわ〜っっ」

セナは頭を抱えた。
こんなにどきどきしていては、今夜はとうてい眠れそうになかった。

 

 

 

その夜、セナにしては布団の中で長いこと目がさえていたが、いつのまにか眠ってしまったらしい。
夢の中でジグザグに走っていたら母親に怒られて目が覚めて。久しぶりに黒美嵯川に向かいながら、ひょっとして昨日のことは夢だったんじゃ・・・?とさえ考えた。
だがそれが夢ではなかったことは、走ってきた進の様子が教えてくれた。
いつもはセナを見てうなずきながらも、スピードを落とさずにセナの前を走っていく彼が、今日はセナを見て少し驚いたように目を見開き、そして目の前で立ち止まった。

「おはようございます」
「・・・」
「・・・あの?」

何故立ち止まったのかわからない、と見上げるセナから進は気まずそうに目をそらし、「・・・来ないかと思った」とぼそりと言った。しかしセナが何かを言う前に、いつものように先にたって走り出す。
久しぶりのランニングコース。夏休み前よりも進のペースは速いが、セナは離されずについていく。この夏自分を鍛え上げたのは、二人とも同じだ。また進と一緒に走れることが、セナにはうれしかった。
目の前に進がいる。進と一緒に走っている。
広い背中を追いかけながら、セナの心は呼吸に負けないくらい弾んでいた。

昨日の出来事を再び意識しだしたのは、いつもの土手に降りてからだった。
走っている間は背中だけ追っていればいいが、ランニングが終わった途端に、昨日のどきどきが戻ってきた。
隣に座る時も妙にぎくしゃくしてしまって、ひと一人分くらいの隙間を空けてしまった。
どうしよう。走る前は平気だったのに、今は恥ずかしくてまともに顔を見られない。

「小早川」
「はっ、はい!」

顔を上げられないまま、セナがなんとか返事をすると、進はしばらくの沈黙の後、

「昨日はすまなかった」

と謝った。

「いえ、あの」
「俺が未熟なせいで、お前に迷惑をかけた。二度とあのような真似はしない。
お前と個人的に会うことも・・・もうやめるつもりだ」

え?とセナは耳を疑った。だが言葉は繰り返されることはなく、進は今日はそれを言いに来た、と言葉を結んで立ち上がった。
もう会わない、といわれた。
アメリカから戻ってきて、進に再会して、やっとまた毎日一緒に走れるとおもったのに。
走った後で、土手で少しばかりの会話を交わすのが楽しみだったのに。

立ち去りがたさを感じつつも、一人土手を上っていこうとした進は、今度は気のせいではなく後ろにひっぱる力を感じて、足を止めた。
振り返ると、進のパーカーの端を、セナの手がきゅっとつかんでいた。
さっきまで、まともに目を合わせようとしなかった彼が、今は泣きそうな顔で進を見上げている。
小早川、と進は何かを言いかけたが、言葉を押し殺すように拳を一度硬く握り締めると、開いた手でセナの手を、まるで壊れ物を扱うかのようにそっとパーカーからはずした。

「お前には何の非もないことだ。だが、これ以上お前といれば、俺は何をするかわからん」

進は苦しげな表情でそう言うと、今度こそ土手をかけ上っていってしまった。

 

つづく

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