スローステップ

 

12

 

手の中にすっぽりとおさまる小さな手は、わずかでも力を入れたら壊れてしまうかと思った。

実際にはそんなはずはないことはわかっていた。
半年前はともかく、今はその手にボールをおさめれば、容易に取りこぼすことなどしない。パスキャッチの練習でできたとおもわれる手のひらのマメはすっかり硬くなっている。夏の間に日焼けしたその手は、やや華奢ではあるがれっきとしたアメフト選手のものだった。

・・・だが、パーカーのすそを握りしめたその手は、細かく震えていた。
あの時触れた、彼の手の感触が、今だにこの掌に残っている。

「し・ん!」

至近距離から大声で名前を呼ばれ、進はむ、と顔を上げた。ナイター照明に照らされた、もう人もまばらなグラウンドの片隅で、長身の桜庭が、背を屈めて進を至近距離から覗き込んでいた。

「怖い顔で自分の手相ばっかり見つめて、不気味だってば。死相でもでてたわけ?」
「・・・別に手相をみていたわけではない」

回想から無理やり現実にひき戻されてみれば、目の前にいたのは桜庭で。進はむっつりと不機嫌そうな顔になった。
その理不尽きまわりない態度に、桜庭のまなじりがきりきりとつりあがった。

「おまえね。合宿から帰ってきて早々、自分がどれだけチームに迷惑かけてるかわかってる?あれほど手加減しろっていっているのに、オフェンス陣を次々と串刺しにしてくれちゃって・・・秋大会始まる前にチームをつぶす気!?」
「・・・」

ダメージを与えている自覚はあるのか、黙り込んだ進に、桜庭はごほんと咳払いした。
いや、ちょっとむかついただけで、非難しにきたわけじゃないのだ。

「その・・・何か悩みがあるなら話きくけど?」

進はそこではじめて桜庭を見た。しばらく、その顔が相談するに値するかを考えていたようだが、

「貴様にする話などない」

結局、ふいと顔をそむけて言ってしまった。
第一、悩んでいるかどうかも定かではないのだ。
セナとのこと――黒美嵯川での偶然の再会、毎日のランニング、ひまわり畑でのキス、そして別れを告げたときのセナの表情に至るまでの全てが、進にとっては特別なことだった。できれば、この正体不明の痛みごと、心の奥底にしまっておきたいという気持ちがあった。

だが桜庭にそんな進の気持ちがわかるはずもなく。友人の生意気な態度に、彼はひよこ頭から湯気を出して怒った。

「もうお前なんか知るもんかー!」

ぷんぷん怒りながら部室に向かう桜庭と、また自分の手に視線をもどす進の様子を、少し離れたところでながめていた高見は、やれやれとため息をついた。

 

 

 

なぜ、あの時キスなどしてしまったのだろう。
なぜ、泣きそうな顔をした彼を見た時、抱きしめたくなったのだろう。
なぜ、自分はこんなにも彼のことばかり考えているのだろう。

ひまわり畑で無邪気に笑う彼をかわいいとおもった。嬉しそうに自分の後ろを走る彼を愛おしいとおもった。
抱きしめたいとかキスしたいとか、そんなことを思うのは男である彼に対する最大の侮辱だ。
決して侮っているわけではない。彼は最強の好敵手であることに変わりはなく、成長していく彼は脅威ですらある。
それなのに、あの華奢な身体、細い手足に触れたいと思ってしまうのはなぜなのか。
くるくると変わる表情に、こんなにも心がざわついてしまうのはどういうことなのか。

心を空にするためにトレーニングルームに残っているのに、気がつけばトレーニングしながら同じことばかり考えている。
このような状態では、いくら続けても意味がない。

「まだ残っていたのかい?」

とうとう中断し、ため息をついたちょうどその時に、声をかけられた。
トレーニングルームの入り口で、すでに制服に着替えた高見が進に微笑みかけた。

「・・・すみません。もう帰ります」
「別にいいよ、進が鍵を持っているんだし。だけど、集中できないならいっそ帰って休んだ方がいい。それでなくとも普段からオーバーワークなんだから」

最近の進のプレーを責めるわけでもなく、ただ気遣う言葉だけを与えて出て行こうとするキャプテンを、進は思わず呼び止めた。

「・・・俺は、チームに迷惑をかけていますか」

進らしくない弱気な問いに、高見は少し驚いたように目を見開き、扉を閉めると進の隣のトレーニング台に腰掛けた。

「誰も迷惑だなんて思ってはいないよ。誰だって調子が出ない時はあるだろう?桜庭もああ見えて、結構心配しているんだよ」

何があったのか知らないけれど、案外話してみたらすっきりするかもしれないよ?
別段話すことを期待している風でもなく、たまにはおいしいものでも食べたら?とでも言うような口調でのんびりとそういわれて、進の心が少し動いた。最近の自分がおかしいことは自覚している。元の自分に戻るにはセナのことを忘れるしかないが、それができないからどうしようもない。だが話すだけなら・・・誰かに話して自分の気持ちに区切りをつけることができるのなら。

とつとつと、進は話し出した。自分の心のうちにある、宝物のようないろいろなことを。
ただ「彼」がアイシールド21だということだけは伏せて。
高見は進の話が終わるまで、あいづち以外の口をはさまなかった。

「・・・なるほど」

高見は天を仰いだ。アメフトとトレーニングにしか興味がないとばかり思っていた進が、と少しばかり驚いたが、彼だって人の子、木の股から生まれてきたわけではないのだ。

「その子に好きだって言わないの?」

普通なら男が男に告白されても嬉しくはないだろうが、去り際に進をひきとめた話をきけば、とりあえず告白してみるのは悪くないように思える。
キスまでして避けられなかったのなら、なおさらだ。
だが進はここで怪訝な顔をした。

「『好き』・・・?」

ああ、この後輩は。自分の気持ちにも気づいていないんだ。だってそうでしょ、と高見は小さく笑った。

「話をきけばきくほど・・・進のそれは『恋わずらい』だと思うけど」

恋わずらい。
それは進の心にストンと落ちていった。今感じている、もやもやした気持ちや、彼を想う時に感じる心の痛みに名前がついた。原因不明の症状に、医者が病名を与えた。そんな感じだった。
明らかにすっきりした顔になった進に、高見がそろそろ帰ろう、と促した。
廊下はすでに明かりが消えていて、しんと静まり返っている。普段はこんな時間まで3年生の高見が残っていることはない。もしや自分と話をするために遅くまで残っていたのだろうかと、さすがに少し申し訳ない気持ちになった。

「とにかくもう一度その子に会ってみれば・・・進?」

校門を一歩出たところで、進は立ち止まっていた。その目は校門の前に立っていた、泥門の制服を着た小柄な青年を凝視している。

「あの・・・桜庭さんが、進さんはまだ残っているからって・・・」

あの時の記憶のまま、泣きそうな目をしたセナが、進を見上げていた。

 

 

つづく

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