スローステップ

 

3

 

余計な事は何も考えたくなくて。
火照った顔をアイシールドで隠して、午後の部活に参加していたけれど。
『いいからテメーはとっとと帰って寝ろ!』
異様に聡い悪魔の先輩に、銃で追い立てられて帰らされた。
家に帰るなりリビングのソファに倒れこんで、
そこから先の記憶が、まったくなかった。

夢を見た。
白いユニフォームを着た、あの人が前を走っていて、
全速力で追いかけながら、一生懸命名前を呼ぶけれど、
彼は振り向くことなく駆けていく。
自分より速く駆けて、遠ざかっていく――

目が覚めたのは、次の日の朝だった。
もう空はすっかり白んでいた。
セナはいつのまにかパジャマに着替えさせられていて、
自分の部屋で布団に寝かされていた。
体中がぎしぎし痛んで、だるい。

(ランニング、休んじゃった)

母親が運んでくれたお粥を食べながら、ぼんやりと思った。
行けなくて、よかったかもしれない。
ただ一度、自分をみてもらえなかっただけ。
雨で視界が悪くて、あるいはたまたま気づかなかっただけかもしれない。
だけど、もし嫌われていたら。
自分が気づかないところで、彼の気に障っていたとしたら。

(進さんに、嫌われたくない)

次に会った時、どんな顔をすればいいのかわからない。
会って、また無視されるのが怖い。
あの人に会うのが、怖い。

結局その日は一日、布団の中で過ごすことになった。

 

 

翌朝。
セナはいつものランニングに出かける時間に目を覚ました。
軽く感じる身体が、平熱に戻ったことを教えている。
寝静まっている家をそうっと抜け出すと、さっそく黒美嵯川へと走り出した。
次第に明るさを増していく川沿いを走っていると、心まで軽くなる気がする。
進と顔をあわせるのはやはり少し気まずい気はしたけれど、
コースを変えて彼を避けようという気にはならなかった。

朝焼けでオレンジ色に染まる橋で折り返し、しばらく走っていると
見慣れたスウェット姿の男がこちらに走ってくる。
遠くからでもわかるほど、今日の彼の目ははっきり、セナを見ていた。

(進さん)

二人の距離はあっという間に縮まる。
無視されていない、ということに勇気付けられて、セナはいつものようにぺこりと
頭を下げて、すれ違おうとした。

「アイシールド21」

背後から呼び止められ、セナはびっくりして足を止めた。

「は・・・い?」

おそるおそる振り向くと、進がすぐ後ろでこちらを向いて立っていた。
早朝ランニングを始めてから何度もすれ違っているが、
呼び止められたのはこれが初めてだった。

「昨日はどうかしたのか」

フードをかぶった進の目は、まっすぐにセナを見つめていた。

「あ・・・ちょっと風邪引いて」

他校の、しかもランニングですれ違うだけの人間のことなど
気にかけるひとだとは思わなかっただけに、やや面食らいながらも正直に答えた。

「風邪か・・・一昨日の雨のせいか」
「はい、たぶん」

小さく息を吐いたその顔が、なんだかほっとしているように見えたのは気のせいだろうか。

「もういいのか」

はい、と答えると、進は目元を優しくなごませてそうかと答えた。

(――!)

いつも厳しい表情をしているその人の、
思いもよらない優しい表情に、
セナの心臓はドクン、と高鳴った。

「引き止めて悪かったな。その・・・・すまなかった」

遠ざかっていく後姿を、セナは立ち尽くしたまま、いつまでもぼうっと眺めていた。
彼の最後の謝罪が、あの雨の日のことだと思い当たったのは、それからずいぶん後のことだった。

 

 

つづく

小説部屋