スローステップ

 

5

 

今年最初の台風は、その日の未明に関東を直撃した。
普段体内時計で目覚める進だが、この日は落雷の音で目が覚めた。
夜明け前の暗闇を映す窓に、大粒の雨が勢いよくたたきつけられている。
日課のランニングは雨の日でも欠かさないが、こんな暴風雨の時は別だ。
最低限必要な視界も確保できない状況で走っても、怪我をするだけでトレーニングの意味がない。
幸い今日は休日。部屋でトレーニングでもするか・・・と思いかけて、
進はふと窓の外に視線を戻した。

雨の中、雨具も着用せずに走っていた小柄な姿が頭に浮かんだ。
彼はその翌日、風邪を引いて寝込んだという。

(まさか、とは思うが)

嫌な胸騒ぎがした。

雷を伴う暴風雨。
進でさえ思いとどまる天候だ。
アスファルトはところどころ川になっているだろうし、黒美嵯川もかなり増水しているだろう。
並みの神経の持ち主であれば、こんな日にランニングにでかけようなどとは思わないはずだが、しかし。

「清十郎、あなたまさかこんな日に出かける気じゃ」
「すぐ戻る」

やはり雷に起こされたのだろう、パジャマ姿の母親に、短くそう答えると、
進は雨具を頭から被って、嵐の闇の中に駆け出していった。

 

 

 

 

ドドーン!とまた、けたたましい音が響いた。
厄介なのは雷よりも雨よりも、この強風だ。
雨粒を痛いほど顔面に吹き付けて視界を奪い、時折あらゆる方向からくる突風がセナの身体をふらつかせた。

(うう、雨具着てても意味ないし〜)

襟や袖口、足元からもうすでにぐっしょりと濡れている。
朝、窓の外を見たとき、今日は無理かなとは思ったのだ。
幸い今日は休日だし、このまま寝てしまおうとも考えた。
だけど。

(進さんは走るのかな)

普通の人なら、こんな日に走るなんて考えないだろうけど。
彼なら、どんなにひどい天候だろうと、黙々と走る気もする。
もし、今日もあの場所に行ったら、いつものように彼に会えるかもしれない。
そう思ったら、雨具を着て家を飛び出していた。


夜が明けたとはいえ、厚い雲が上空を覆っていて、とても朝とは思えない光景だ。
いつもは穏やかな黒美嵯川は、普段の倍以上水かさが増し、にごった水がごうごうと渦巻いている。
まっすぐ走ってるつもりでも、頼りない身体は突風にあおられて右へ左へと蛇行した。

(これじゃランニングにならないよね)

ただの雨ではないのだ。セナは今更ながら自分の浅はかさに気づいた。
トレーニングの効率を考えたって、こんな日は自宅で筋トレでもしてたほうがずっといいはずだ。
橋の手前を折り返す。雨でほとんど前がみえなかったが、進が来る様子はなかった。

(何やってるんだろ)

今朝は、どうしても走りたかったわけじゃない。
休日だから、ゆっくり寝ていてもよかった。
なのに、こんなところにいるのは、あの人に会いたかったから。

朝のランニングを始めたのは、自分の意思だ。
だけど、毎日同じコースを走っていたのは、
こんな日にまで走ろうと思ったのは、
彼に会いたかったから。

走りたくて、速くなりたくて始めたのに、いつのまにか不純な動機にすりかわっていたなんて。

(進さんに会わせる顔がないかも)

情けない自分に落ち込みかけた時、突風が吹いた。
不意打ちだったために、華奢な身体はろくに抵抗もしないまま、吹き飛ばされる勢いで土手の縁まで押しやられた。
だがセナ自身は、顔面を打ち付ける雨粒で、前はほとんど見えていない。
片足が空を切り、身体が土手の下へぐらり、と傾いた時。

伸びてきた太い腕が、細い腰をがしっと掴んで引き戻した。

「馬鹿!こんな日に何をしている!」

危うく土手の下――つまり増水した川の中へ転落するところだった、と気づいたのは後になってからのことで。
顔を直撃する雨粒をぬぐって何とか声の主を見上げると、
そこにはいままでにない怖い形相で息を乱している、
進の顔が間近にあったのだった。

 

 

つづく

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