スローステップ

 

6

 

雨は少し弱まったかと思えば再び激しく雨粒を叩きつけ、
時折くる突風に、セナの細い身体が文字通り吹き飛ばされそうになる。
だがその度に、力強い大きな手がセナの手をしっかりと掴んでぐいと引き戻した。
出会い頭に声を荒げてセナを叱った男は、
今は不機嫌そうに口を引き結び、前を睨んでいる。
明らかに怒っている様子だけれど、力強くつながれた手はとても暖かかった。

家まで送っていく、と告げた進は、遠慮も反論も許さなかった。
風にさらわれないように小さな手を掴み、家のある方向を聞くとセナより先に歩き出した。

 

 

 

「コバヤカワ・・・」
「はい?」

唐突に名を呼ばれて振り向くと、進は何やら難しい顔で表札をじっと見ていた。
そういえば、とセナは思い当たる。

「まだ名前を、聞いていなかった」
「あ・・・瀬那です。小早川瀬那」

しっかりと繋いだ手はそのままで、
コバヤカワセナ、とかみしめるように繰り返すその横顔を見上げながら、
セナは鼓動が跳ね上がるのを感じた。
名前を呼ばれた、ただそれだけで。

「では、小早川。このような悪天候の日に無理はしないことだ」
「ちょ、ちょっと待ってください!」

繋いだ手を離し、さっさと踵を返す進の腕を、セナはとっさに掴んだ。
折りしも突風が吹きつけ、引き止めるつもりだった腕に思わずしがみつく。

「・・・」
「す、すみませんっ・・・でもどうか家に上がっていってください!」

理由はわからなかったが、なんとなく。
進がランニングのためにあの場所に来たわけではないことはわかっていた。
カッ、と行く手でまた稲妻が光る。
雨と風はますます激しくなる一方で、こんな中をひとりで帰すわけにはいかなかった。

「俺は一人で帰れる」
「だめですっ。どうしても帰るなら、僕が進さんを送っていきます!」

びゅうびゅうとふきすさぶ雨風の中、自宅の門前で不毛な押し問答をくりかえしていると、玄関のドアが開いた。

「セナ!雨の中いつまでも何やっているの!お友達にも早くあがってもらいなさい!」

母親の一喝が、奇しくもこの場を収拾したのだった。

 

 

 

自分の部屋に進がいる。
それはひどく現実味のない光景に思えた。
二人とも雨具を着ていたとは言え、この暴風雨にさらされては、
濡れずに済むわけにはいかなかった。
母親に追い立てられて交代でシャワーを浴び。
濡れた服が洗濯から乾燥までの過程をたどる間、
進は客用のパジャマをあてがわれ、
セナと一緒に簡単な朝食を出された。

「ずいぶんしっかりした子ね〜」

慣れた手つきで二人分の食器を下げて洗い物をする後ろ姿に、母はセナにそう囁いてきたけれど。
進が台所に立つことよりも何よりも、彼がパジャマをきて、自分の部屋でスポーツドリンクが入ったグラスを傾けていること自体、セナにはぴんとこなかった。
沈黙に緊張するのも忘れ、ぼーっと進の顔をながめていると、グラスをあけた彼が紙とペンはあるか、と聞いてきた。
ノートから一枚破り、下敷きとサインペンを添えて出すと、進はノートの切れ端に、地図をかきはじめた。

「おまえのランニングコースは、さっきの道順だと考えていいか」
「あ、はい」
「俺はいつもこういうコースで走っている」

地図を見ると、セナがいつも折り返す橋のさらに先の橋を渡って反対岸に回っている。セナが走っているコースの倍以上の距離はありそうだ。
やっぱり進さんちってここからだいぶ遠いんだな〜、と考えてから、はたと、進が地図まで書いた意図に思い当たった。

これってもしかして。
次から一緒に走ろう・・・とか。

まさかという思いと、ほのかな期待を抱えながら、向かい側の顔をそっと見上げると、
進はやや憮然とした顔で、セナの考えを肯定した。

「俺のコース全てにつきあうことはないが。おまえは、知らないところでどんな無茶をするかわからん」

いつもすれ違っている小柄な姿を、見かけない日はとても気になるから。

一緒に走るのは嫌か、とやや硬い表情で問われて、セナはあわてて首を振った。
どうしよう。むしろ、すごく嬉しい。
毎日すれ違うだけの自分を、そこまで気にかけてくれて、とても嬉しい。
ああ、でも。

「あの、もしできれば、全部のコースを一緒に走りたい、です」

思い切ってお伺いをたてると、進はそうかと、いつか見せたのとおなじ、優しい目でうなずいたのだった。

窓の外を叩きつける雨音は、いつしかほんの少し、弱まっていた。

 

つづく

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