スローステップ

 

8

 

彼と出会う前、世界はどんな色をしていただろうか。
見たときに色も形状も識別しているはずなのに、記憶にあるのはモノクロの像ばかりだ。
近所の庭に咲いている花の色など知りもしなかったし、黒美嵯川沿いに植えてある木が桜であることすら、彼に指摘されるまで気づかなかった。
「緑がだんだん濃くなってきましたね」「この花、何ていうのかな。きれいですよね」彼が嬉しそうに話しかけるたびに、モノクロの世界にひとつづつ、鮮やかな色彩が加えられていく。

進と一緒に走りたいと申し出たセナは、初日こそ途中でダウンしたものの、その翌日からは遅れながらもなんとか最後までついてきた。
いきなりペースを上げ距離も倍に増やして走るのは相当きついだろうに、それでも最初から進のペースについてこようとする彼の精神力は大したものである。
初めは、息も絶え絶えだった彼に水分補給の時間を与えるために、いつも別れるところより少し手前の土手に並んで腰かけて休憩していた。
そのうちすぐに、休憩など必要ないくらいにしっかりとした足取りでついてくるようになったが、何故かこのひと時だけは失う気にはならなかった。
セナは一度だけ「もう休まなくても平気です」と言ったものの、進が「うむ」と返事をしたきり、この習慣をやめる気はないようだと悟ると、もうそれ以上は言わずに土手についてくるようになった。

いつもの場所ですれ違わないと気になるから、一緒に走ることにした。
しかしランニングの間は会話がない。きっと自分は小早川セナと話をしてみたかったのだ、と進はおもったのだが。
いざ土手に並んで腰掛けても、言葉がでてこない。
ききたいことは山ほどあるはずなのだが、何を聞いてよいのか皆目見当がつかない。
また、本人が話したがらないことを無理に聞き出すつもりもなかった。
そこへセナが、ぽつりぽつりと、先程のような話をするようになったのである。

ひとつひとつはささやかな話題で、進が今まで気にかけなかったようなことだった。
だがセナが話題にしたものは、鮮やかな色彩をまとって進の脳裏に記憶され、彼といないときでも周囲のものに注意を払うようになった。
それまでセナの話を聞くだけだった進が、ある日突然、「先日おまえがきれいだと言っていた花はムクゲというそうだ。インド・中国原産の落葉樹で・・・」などと話し出したときには、セナは最初目を丸くして、それから心底うれしそうに笑ったのだ。

それ以来、学校がない休日は、土手で過ごす時間が少しだけのびた。
劇的に会話が増えたというわけではなかったが、何も話さずに並んで座っているのもまたよかった。
もっと話をしたいという気持ちや、それとは別の、もやもやとしたもどかしい気持ちは心のうちにくすぶっていたけれど。

「・・・そういえばテレビでみたんですけど」

そんな進の気持ちに気づくようすもなく、セナはまた話をふる。

「すごく大きなひまわり畑があるんです。迷路とかもあって。見渡す限りひまわりなんです。
ちょうど今月末からが見ごろだそうで、進さんと見に行きたいなあって」

そこまでいってからセナは口をつぐみ――それから急に慌てだした。

「あわわわっ、すみません!進さんお忙しいですよね!!」

今の忘れてくださいっ、と胸の前で両手を忙しなく振り、それからなぜかしゅんとなってしまった。
それほど親しい間柄でもないのに馴れ馴れしく誘ってしまった、とでも考えているように。

「学校も部活もある。今月はそのような暇はない」
「・・・はい」

すみません、と傍らの背中がますます小さくなる。

「だが、来月まで花が咲いているのであれば、夏季休暇中に一日くらい出かけることはできるだろう」

セナはぱっと顔を上げた。信じられないと言いたげに進を見つめる大きな目が、みるみる喜びで輝きだした。

「いいんですか!?」
「ああ。俺も楽しみにしている」

辺り一面のひまわり畑も、確かに見ごたえはあるだろうが。
目の前で顔を輝かせているこの人物は、それを目にしたときにどんな表情を見せるのだろうか。

 

この日初めて出かける約束をした二人は、それから一週間後にセナたちデビルバッツが国外追放になることなど、もちろん知る由もなかった――

 

 

つづく

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