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乾いた風が通りぬけていく。
砂を多分に含んだ風だ。
――サラサラサラサラ・・・
どこにでも入りこむ細かい粒子が
体内に溜まった湿気までを取り除いていく。
ああ――ここにいれば、この両手にこびりついた血をも
洗い流してくれるのだろうか?
悲しみと絶望と…そして目がくらむような怒りさえ、
この乾いた砂の間に骨を埋めれば
浄化されるのだろうか?
いつかオレはこの砂に環るだろう。
すべてのことに決着をつけた、その時に――

 

「失礼」

1970年、ロンドン。
昼夜を問わず人通りの多い大通りの裏にひっそりと建つ、古いアパートの玄関で、
高耶は中から出てきた中背の男と軽くぶつかった。ほんの一瞬、高耶は表情を強張らせたが、
そのまま振り向きもせずに階段を登っていく。高耶の部屋――正確に言えば隠れ家だが――
は4階、つまり日本でいうところの5階 にある。エレベータもあるのだが、用心のために使わない。
延々と続く螺旋階段では、今まで一度も住人と顔を合わせたことはなかった。人は住んでいる
のだろうが、平日で皆仕事に出ているのか、こんな昼下りでも廊下はしんと静まりかえっていた。

高耶は鍵を開けて中に入った。薄手の黒のコートを脱ぐと、カーキ色の軍服が現れた。
無造作にそれを脱ぎ捨てながら、高耶はコートのポケットを探る。すると、何もないはずのそこから
小さな包みが現れた。
開けると、カセットテープと分厚い封筒が現れた。

「ったく勘弁してくれよな…」

今日任務から戻ってきたばかりである。しばらくはゆっくりと休めるとおもったのに…と不満も
あらわに、だが着替える合間に書棚の奥からデッキを取り出し、カセットテープをセットする。
何の変哲もないクラシック音楽が流れ出す。ベートーベンの「皇帝」だ。
高耶は舌打ちすると、テープを逆回しにし、速度を1/2にした。
しばらくしてから、聞き覚えのある男の声が流れてきた。

『ご機嫌よう、アーサー・ブラッド少尉。帰ってきて早々済まないが、君にしかできない任務だ。
封筒の中をみてくれたまえ 』
白い封筒の封を切ると、中から航空券と数枚の写真が現れた。
一枚目の写真に、高耶は目を見開く。
そこに映されているのは、四方を見渡す限りの砂漠だった。

 

『知っての通り、ウバールはアブダビに次ぐ石油産出国だが、現在ハマド国王が病床に伏して、
王位継承争いが繰り広げられている。ハマド国王には13人の息子がいるが、有力なのは上の
3人――長兄の アブドゥル、次男のアリ、三男のザイード。いずれも母親は別だ』

高耶は写真を見ながら注意深くテープから流れる言葉を聞いている。情報は1度きりだ。
このテープは一度再生し終わると二度と使えないようになっている。ここで聞き逃したりすれば
命に関わりかねない。

『アブドゥルが我々に協力を要請してきた。三男のザイードはほとんど前に姿をみせないが、
国王に毒を盛っている疑いをかけられている 。次男のアリは軍のほとんどを掌握している。
欧米に対する反感も強い。港のあるイエメンやオマーンへの進出を虎視眈々と狙っていて、
兵器工場では秘密裏に核ミサイルをつくらせている疑いもある。アリが王位につけば、
中東の火種になることは間違いない。
君の任務は、国王の服毒疑惑の調査と犯人の処分、そしてアリの排除だ・・・ 』

排除――それは暗殺を意味する。
潜入の方法など一通り必要な情報を得ると、準備をすべく立ち上がる。
その背中に、無機質な言葉が続く。

『――なお、任務の遂行中にいかなる事態に陥っても、当組織は一切関知しない。
成功を祈る』

 

 

十種類近くのパスポートからひとつを選び出す。一時間後、この部屋から一歩出てから
現地に着くまで、彼は香港人の留学生だ。もちろん向こうに着けば今度はアラブ人になる。
手入れの行き届いたベレッタに弾を装填する。それから愛用のナイフだ。ブランドはない。
だが7年もの間これを使っていて、刃こぼれひとつしたことがなかった。
高耶に殺人術の一から十まで叩き込んだ師――この組織の長から渡されたものだ。
高耶はことにナイフ使いに長けていた。至近距離であれば相手が引き金を引くより速く
息の根を止めることができる。
シンプルな柄の感触は、今では高耶の身体の一部のようにしっくりと馴染んでいた。
青みがかった銀色に輝く細身の刀身は、今まで何人の血を吸ってきただろう。
手にかけた者たちの、断末魔の悲鳴を振り払うように軽く頭を振ると、抜き身のそれを
右足のふくらはぎに巻いた革製の隠しに収めた。

 

ジーパンにカッターシャツといったいでたちはどうみても東洋系の留学生にしか見えない。
最低限の荷物を詰め込んだスポーツバッグを手に、脱ぎ捨てた軍服とコートをハンガーに
かけ、クローゼットに収める。

「今度戻ってくるころには虫食ってるかもな…」

今日着たのだって数ヶ月ぶりだ。もっとも、これで永久に着ることがなくなるかもしれない。
それならそれで、別に構わなかった。命が惜しければこんな仕事などしていない。
組織の大義を信じているわけでもない。10年前、両親と妹を殺されてから、高耶を突き動かして
いるのは、犯人に対する憎悪だけだった。
だが、「任務」を終える度――つまり、組織によって「不要」とみなされた人間を消す度に
自分の中にある深淵がまた広がっていくのを感じる。
今さら、失うものなど何もない。心の空洞に巣食う深淵が、いつか自分を頭から飲み込む
のではないかと、高耶は人事のように思っていた。

もう二度と帰ってこないかもしれない部屋を一瞥して、高耶はそこを出ていった。

 

アサシン部屋


高耶さん暗殺ものです。ほぼオフライン版ですが時々直してます;

改稿 2002/10/11