慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において言え
「梨明の主にご加護を乞い願う
かれが創られるものの悪(災難)から
深まる夜の闇の悪(危害)から
結び目に息を吹きかける(妖術使いの)女たちの悪から
また,嫉妬する者の嫉妬の悪(災厄)から」
クルアーン第113章
「ひッ――」
いけないと思った時には乾いたうめき声が口から出てしまっていた。
ロンドンの小さな事務所のタイピスト、キャサリン・ロウにとって、
家の鍵をよりによって職場に忘れてきたのが運のつきだった。
彼女は外で食事をとった後に乗り込んだ地下鉄の中でそのことに
気がつき、うんざりしながらも会社に戻ってきたのだ。
明かりの消えたオフィスには先客がいた。窓際の机の前の床に
横たわっている影が一つ。その傍らに蹲っている影が一つ。
闇夜ならまだよかった。「強盗」に出くわしたという事実は変わらない
としても、みたくないものまで見ずに済んだだろう。だがほとんど満月
に近い月の光が、その二つの影をはっきりと照らしだしていた。
横たわっている男が、いつか同僚が着ていたのと同じ服を着て、
顔じゅう血まみれになってこときれている姿を。
蹲っていた影がこちらをふりかえった。何をしていたのか、手には
ガラスの筒か何かを持っている。
顔は逆光で見えなかったが、若い東洋人のようだった。男は音もなく
立ち上がると、彼女を見据えたまま、こっちに近づいてくる。
キャサリンは金縛りにあったように動けなかった。顔のわからない
男は目だけをぎらぎらとさせて歩いてくる。
逃げ出したいのにその瞳から目をそらすことができない。
殺される――!
男の手が彼女の顔にのびたとき、彼女の神経はぷつりと焼ききれた。
「被害者はトーマス・ウォン。この会社でタイピストをしていました。
事件当日は急病で欠勤するとの連絡が本人からあったそうです。
通常このオフィスは7時には誰もいなくなるので、その後に戻ってきた
ように思われます」
ひっきりなしにフラッシュが焚かれる室内には、たくさんの人間が
忙しく出入りしていた。その傍らで、若い刑事がもうひとりの壮年の
男に報告をしている。
「他の4人と同じく、自分で両目を抉りとっています。両手の爪に
組織が付着していました。そして…やはり同様に、抉られた目を
隠すようにこれが… 」
ビニール袋に入れられたそれを見せる。死因はおそらく今度も心不全。
眼球は自分で抉っているにもかかわらず、自殺と言えない理由は
ここにあった。
失われた目の代わりだとでもいうように、死体の目の上には
かならず目が描かれたステッカーが置いてあった。
赤や緑でけばけばしく着色された、抽象画のような「目」。
そして被害者の眼球はどこにもみつからなかった。
つまり、被害者が死んだ後で誰かがこのステッカーを置き、
眼球を持ち去ったということだ。
「これで5人目か」
それも東洋人ばかり。運び出される死体に向かって、ブルック警部は
呟いた。これでも警視庁に入ってから30年間、いろいろな事件を手がけ、
少なからず成果をあげてきた。中にはこれよりもっと残虐な連続殺人も
いくつかあった。しかしこの事件はそのどれよりも薄気味の悪い感じが
する。刑事としての第六感が産毛を逆立てて警鐘を鳴らしていた。
「今回は目撃者がいます。第一発見者のキャサリン・ロウ。今は
まだ取り乱していますが…『黒い悪魔を見た』、と 」
その言葉が今回初めて警部の関心をひいた。
「黒い悪魔?」
若い刑事は頷いた。
「若い、東洋人の男だったそうです」
つづく
アサシン部屋