ロンドン郊外。
その夜、めったに主がいることのないその家に、久々に明かりが灯った。
月に何日もいないにもかかわらず、庭はきちんと手入れされ、窓越しに見る
部屋の中も小奇麗にされているのは、管理する人間を雇っているからだろう。
家の主は一階のリビングでエクササイズにいそしんでいた。黒のタンクトップに
短パンという格好で、マシーンの上でランニングをしている。どれくらい続けて
いるのか、一見細いが無駄なく筋肉がついた日焼けした身体からはとめどなく
汗の玉が流れ落ちている。タンクトップや短パンは濡れて肢体にまとわりつき、
艶のある黒髪は頬や額にはりついている。意思の強そうな漆黒の瞳は
挑むように正面の壁を睨み付けていた。マシーンから降りると、今度は実際に
そこに敵がいるかのように攻撃のシミュレーションをする。若い身体は全く
疲れを見せず、機敏で鋭利な動きは隙も無駄もまったくなかった。その気迫と
殺気は窓の外からですら見てとれる。
やがて滴り落ちる汗をタオルで拭いながら、彼は部屋を出て行った。おそらく
シャワーを浴びるのだろう。
男は誰もいなくなったリビングの窓に近づくと、ガラスカッターで小さな穴を
あけた。中に手を差し入れてロックを外し、部屋に侵入する。
彼は二階に向かったようだ。ドアを開ける音がして、まもなくシャワーの音が
聞こえ出した。
男は懐から細長いケースを取り出した。開けると、そこには細い注射器と
赤い薬液が入っていた。慣れた手つきで注射器に薬液を満たす。軽く押して
空気を出すと、バスルームに近づいていった。
ドアは開けっぱなしだった。汗ですっかり濡れそぼった衣服がにちらばって
いた。すりガラスごしにシャワーを浴びている人影が動いている。
よし、と男は確信した。今なら簡単に仕留められる。
男はガラス戸を開けた。
「!」
眼前にとびこんできたのは、まず湯気。そしてシャワーにうたれてゆらゆらと
ゆれている白いシャツだった。
(しまった)
と思う間もなく後頭部に衝撃が走り、あっという間にバスルームの床に顔を
押しつけられていた。
「いつくるかと待ってたぜ」
この家の主――高耶はタオル一枚腰に巻いただけの格好で、ベレッタを
男の頭に押し付けた。抵抗する術を失った男の浅黒い手から注射器を
取り上げる。
それが何か確かめることもなく、侵入者の首筋に針を近づける。
後ろを向いていても何をしているのかわかるのか、男は声にならない悲鳴を
あげる。
「ヒッ…やめ」
「おまえらの教主はどこにいる」
彼は固まった。どういう力加減をしているのか、自分のものより一回りは
細い腕に右腕をしっかりと掴まれている。ベルトの隠しに楽に死ねる薬が
入っている。だがこの状態ではとても飲めそうにない。
「なんならアラビア語で言ってやろうか」
針が男の首筋をちくりと突いた。
「言う!言うからやめてくれェ!」
全身を汗びっしょりにして男は叫んだ。どんな殺され方をされようと、アレを
注射されるよりはマシだ。
高耶は鼻でせせらわらった。
「敬虔な信者でも、自分が「栄えある贄」になるのは嫌か。
お遊びは終わりだ…お前らの本拠地を、教えてもらおうか」
つづく
アサシン部屋