駆けていく二人の足元を銃弾が抉る。撃たれれば死ぬ、先刻まではそう考えて
こうして走ることすら怖かったのに、今は何も感じない。家で食事しながら
テレビで銃撃戦を見ているのと同じように、自分が今直面している死ぬかもしれない
恐怖が、まるで他人事のように思えた。
「伏せろ!」
走っているところをいきなり引き倒される。ごつごつした地面がすごい勢いで
顔にぶつかった。だが乱暴な高耶の行為に異を唱える余裕はなかった。
すぐ後ろで鼓膜がおかしくなるほどの銃声が立て続けに聞こえた。高耶に
背中から覆いかぶさられた由比子の額に何かがぶつかった。
撃たれたかと一瞬びくりとしたが、何かが落ちただけらしい。石でも弾丸でもない
それに、由比子はほとんど無意識に手をのばした。
その手の甲にポタリ、と何かが落ちた。
真紅の暖かい雫――
「高耶・・・あなた」
「すぐに追っ手が来る。走れ!」
由比子の言葉にも耳を貸さず、高耶は彼女の腕を取った。休む間もなくたった一人で
追っ手を相手にしているせいで、さすがに息が切れている。よけいな言葉は
一切口にしない。
もともと口数の多い男ではなかったが、最初に出会ったときはそれほどとっつきにくさを
感じなかった。日本人だと言った自分に、どこか懐かしそうな顔をしていたからかも
しれない。足手まといの自分に迷惑そうな顔をすることなく、銃声におびえる自分を
守ってここまで来た。由比子ひとりだったらあの最深層から出ることすらできなかった
だろう。
――人殺し!
ひどいことを言った。由比子が助かるために彼らは死んだのだ。
あの時一人でも生きて応援を呼んでいたら、もともと不利な自分達は上の層に行くこと
はできなかった。
高耶は何も言わなかった。ただ、わずかに目を細めただけだった。
それからひたすら暗い洞窟の中を駆け続けて、かばわれ、導かれながらも
由比子は、自分に対してわずかに開いていた高耶の心が完全に閉ざされて
しまったことを感じていた。
「ここを曲がれば出口だ」
銃弾の雨をやりすごしながら高耶が口を開いた。
「出口を塞いでいる奴らを片付ける。合図したらひたすら走れ。銃声がしても絶対
止まらずに、ジグザグに走るんだ。後ろは絶対振り返るな。車の鍵は持っているよな?」
ここからは一人で行け。そういうことだ。
麻痺していたとおもった恐怖が蘇る。今までは守られていた。あの銃弾の中を、
今度は一人で行かなければいけないのだ。
いやそんなことじゃない。あと数瞬後には彼と一緒にはいられなくなる。
きちんと言わなければいけないことがいくつもある。でも唐突に突きつけられた
別れに、何をどういえばいいのかわからない。
「たか――」
だが迷いながら口にしようとした時にはもう遅かった。高耶はこちらに向かう追っ手を
相手にしながら 出口を固めている者達を次々に倒していく。由比子の声は
銃声にかき消された。
「今だ、行け!」
「高耶、私・・・」
言いかけた由比子の腕を掴むと、前に押し出した。
「早く行け!」
入り口で絶命して倒れ伏す男たちを、もはや気にする余裕もない。
声に突き飛ばされるように、由比子は走った。すぐ後ろから銃弾が追ってくる。
振り返ることすらできずにひたすら走った。木や岩の間を縫うように
ジグザグに走った。何度か転びそうになりながら斜面を駆け下りている
うちに銃声は遠くなり、やがてほとんど聞こえなくなった。
もはや追っ手の気配はない。それでも怖くて、休みたがる足を叱咤して
走り続けた。やがて斜面が緩やかになり、行く手にジープを見つけた時、
由比子ははじめて足を止めた。
来た道を振り返る。もはや銃声は聞こえない。砂塵を舞い上げる風の音と
はるか上空を飛んでいる鳥の声。ついさっきまで死と隣り合わせだったことが
嘘のようだった。
本当に、これでよかったのだろうか。
自分を逃がすために命を削った彼を、あそこに残してきてよかったのだろうか。
彼がただ者ではないことはわかっている。だがあれだけ騒ぎになっている中、
どうやって戻るというのか。どう考えても自殺行為だ。
由比子は手を固く握り締め――手の中の感触に右手を開いた。
伏せている時に落ちてきたものだ。たぶん首にかけていたのだろう紐は切れ、
先には守り袋のような小さな巾着がぶらさがっていた。
(これ・・・高耶の・・・?)
可能性は高い。あの時由比子に覆いかぶさっていたのは高耶だ。
開けてよいものかと思ったが、中身の感触が気になった。袋の口を開けて
中身を取り出し――しばらく驚いてそれをみつめていたが、元に戻すと
駆け出した。
もと来た道を。
自分は何も言っていない。
彼がしてくれたことに対して礼もいわなかった。
ひどいことを言ったのに、あやまりもしなかった。
ここを離れたら、自分はきっと彼には会えない。
おそらく高耶にとって大切なこれを、どうやって返せばいいかもわからない。
どんなに怖い思いをしたか、忘れたわけではない。
だけど、せめてこれだけは渡したい。
息をきらしながら中腹まで上った時。
ズズ・・・という音とともに大地が揺れた。
(地震!?)
続いて起こる、すさまじい爆音。まだはるか向こうの、洞窟の方からだった。
ドオン!という音が何度も鳴り響き、その度に地面が激しく揺れた。
緊張してその場に立ち尽くした由比子は、はっと我に返ると急いで
洞窟に向かった。
「高耶!?」
やっと洞窟が見えるところまでたどり着き――由比子は呆然と立ち尽くした。
足元にこぶし大の岩がころころと転がり、ぶつかった。
「う・・・そ・・・」
そこには洞窟の入り口があはずだった。
今は影も形もない。
そんなものは最初からなかったかのように、巨大な岩盤が行く手を塞いでいた。
カシャン。
与えられた部屋で、窓の外を見ていた直江は、床に落ちたそれを拾い上げた。
何の変哲もない、銀色の鍵。鎖をつけて装飾用の小型の半月刀の柄に引っ掛けて
いたのだが、どうやら鎖が弱っていたらしい。
月に何度も戻ることのない、だが確かに高耶が戻ってくる場所。
物にも人にも執着することのない高耶が、人を入れてまで手入れをしているのだ。
彼の家に対する並々ならぬ想いを知れば知るほど、それを取り上げてしまいたいと
強く思うのだが。
本人は渡したことすら忘れているだろう、家の合鍵を、直江は手の中に包み込んだ。
つづく
アサシン部屋