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中東会議が始まってから5日目。

会議は紛糾を極めた。イスラエルに対し断固とした態度をとることについては
意見が一致しているものの、その先の細かい取り決めとなると各国の思惑が
ぶつかりあってなかなか話が先に進まない。
先の対イスラエル戦争の敗北も、そもそも内部分裂が原因ではなかったか。
絵に描いた餅を前に、気ままに私欲に走る指導者たち。かと思えばムハンマドや他の指導者との
会談のせいか、昨日言ったことを今日ひるがえし、明日はまた意見が変わる。
そんな彼らのもとでふたたびおびただしい血が流されるだろう。
口から唾をとばしてまくしたてる彼らの中で直江は一人醒めていたが、自分の国に火の粉がふりかかる
ことだけは避けなければならない。そう考えるのは決して「愛国心」からではなかったが。
直江は議長席にいるムハンマドを見た。
興奮する指導者達をなだめながら、腹の中では一体何をたくらんでいるのか。

金、権力、そして信仰。
そのいずれかに我を忘れるほど夢中になれるのは、いっそ幸せなことかもしれない。

何もない砂漠が、無性に恋しかった。

 

 

ここが砂漠の真ん中にあるということを忘れてしまうほど、王宮の中庭は緑豊かだった。
広い庭園の中のその場所は手入れされた芝生と大きな木がつくる木陰が心地よく、
誰にも邪魔されない「穴場」だった。

頭布を外し、襟元をゆるめて、いつものように太い幹にもたれてまどろんでいると、
カサリ、と茂みの向こうから何かが近づく音がした。
音には二種類ある。危険な音と、安全な音だ。
今の音は安全な音。小動物の類が立てる音だ。
直江は閉じていた目を開けると、音のした方に顔を向けた。

「あ・・・ごめんなさい」

茂みの向こうにいたのは、小動物ならぬ、頭からすっぽりと黒いヴェールを被った娘だった。

 

 

「構いませんよ。私の庭ではないですし」

優雅に微笑んで居住まいを正す直江を、由比子はしばらくぼうっと眺めてしまった。
木漏れ日が頭布をとった髪にさしかかり、きらきらと光っている。金髪ではなく、
優しい薄茶色の髪だ。瞳の色も同じ。光に透ける琥珀のようだった。

由比子はといえば、アバヤと呼ばれる黒いマントで頭からつま先まで覆っている。
この国で女性が外出する時には必要な格好だ。邪視教徒のことを報告するために父と共に
来たのだが、サウジ王が会うと言ったのは父だけで、由比子は控え室で待つように
言われた。話がどうなっているか、部屋でじりじりしているのに耐えられずに
庭を歩こうと外に出たのだが――
ここは男女が一緒にいるだけで不純異性交遊とみなされる国だ。王宮で問題を起こせば
また父に迷惑をかける。我に返った由比子はあわててその場を離れようとした。

「大丈夫、ここには誰も来ません。あなたも座って、その暑苦しいヴェールを脱いだらどうですか?」

きれいなクィーンズ・イングリッシュだった。アラブ人?いやとてもそうは見えない。
だが観光客がここまで入ってこられるとは思えないし、そんな雰囲気でもない。
疑問を山ほど抱えながらも勧められるままに柔らかな芝生に腰を下ろし、
ヴェールをとった。

「あの・・・イギリスの方・・・ですか?」
「いいえ。ウバールという国を知っていますか?」

まがりなりにもこの国の日本大使の娘だ。由比子はうなずいた。
ウバールといえば、アラビア半島の南にある国だ。
とするとこの男はやはりアラブ人ということになる。
由比子の戸惑いを読んだように、直江は補足説明をする。

「こう見えても半分はアラブの血をひいているんですよ。
でも、イギリスには20年以上いました」

だから外国のマナーには慣れていると言外にほのめかす直江に、由比子は
ようやく肩の力を抜いた。さわやかな風が艶のある黒髪をなぶる。
その拍子に白いガーゼとネットを当てた右耳部分があらわになったが、
直江はそれについては何も聞かなかった。

「外国からこの国に来た女性は何かと大変ですね」

私の国ではここほど厳しくはありませんが。と男はのんびりと話しかける。

「ええ――最初は驚きました。ここに住んでいる女の人たちは窮屈じゃないのかしら」
「彼女達は戒律を当たり前のものとして育ちますから。一人で出歩けないかわりに
宝物のように大切にされる。アラブの男は時には命がけで自分の妻や、娘や、婚約者を
守るんです」

命がけで・・・
由比子の表情がふっと翳った。

命がけという言葉の重さを、この国に来て初めて知った。
高耶を助けに行きたいと言い張る由比子に、千秋は困り果てた顔をしていた。
このまま自分達が引き返しても何もできない。ひとまずリヤドに行って、
イギリス大使館と本国に連絡を取る間、あんたは父親に会って事情を説明して、
できれば国王にも会って軍を出すよう働きかけて欲しい。それが高耶を助ける
最短かつ最良の方法だと説得され、ここに来たのだ。

高耶も千秋も恩人だ。なのに自分は足をひっぱるばかりで何もできずにいる。
自分の身も守れないのに出歩いて、捕まって。
助けられるばかりで、何も返せない。

ポタリと、雫が手の甲に落ちた。そのまま声もなく涙を流し続ける間、男は何も言わずに
じっと彼女を見守っていた。

「・・・ごめんなさい、私・・・」
「つらいことがあったんですね」

穏やかに紡がれる言葉は、また泣きそうになってしまうほど心に沁みる。

「よかったら話してみませんか。もしかしたら何か力になれるかもしれない」

優しく促されて、由比子は涙を拭いた。


ここまで自分を嫌になったのは生まれて初めてだった。
何もできないくせに主張だけは一人前の自分。
この人は。私のことを知って、何とコメントするだろうか。
呆れられても、非難されても仕方のないことを私はした。

高耶からの預りもの――小さな守り袋を手の中に握り締め、
半ば懺悔をきいてもらうような気持ちで、ここに来たいきさつを話し始めた。


やがて事の次第と、自分の気持ちを言い表すのに夢中になった由比子は、
話の途中から直江の形相がどんどん険しくなっていくのに全く気づいていなかった――

 

つづく
アサシン部屋

 


由比子ちゃん。あなたは話す相手を間違えました・・・。