直江は予定より一週間遅れてウバールに戻った。
滞在が長引くことは別に珍しいことではないが、会議は予定通りの日程で
終わっている。おまけに留守を預っていたウマルまでが血相を変えてサウジに
発ったことから、この若い国王が何をしでかしたのかと宮廷ではいろいろと取り沙汰
された。
詳細は明かされなかったが、どうやら病気だったらしい。帰国した時の国王の顔色は
確かにあまりよくなかった。帰国の翌日から政務をこなしているが、まだ体調が
万全ではないのか、執務室にいる時間はごくわずかだ。
それでも政務はウマルがいるため、滞ることはなかった。
問題は後宮でおこっていた。
即位して未だ一人の妃も迎えていない現国王だったが、今回、誰かを連れ帰ったらしい。
らしい、というのは、後宮に住む前国王の妃たちがいくら問いただしても、国王はもとより
「その者」についている侍女たちも固く口を閉ざしているためだ。
だが誰かがいることは隠しようもない。
なぜなら、国王が帰国したその夜から、頻繁に恐ろしい叫び声が聞こえるようになったのである。
聞こえてくるのは後宮の一番奥の部屋で、先代からずっと使われることがなかった部屋だ。
使っていないのならそこに住みたいと願い出る妃もいないわけではなかったが、前国王は
使うことはおろか、そこに近づくことすら許さなかった。
そのいわくつきの部屋に、それまで後宮には寄りつきもしなかった直江が毎日のように
通っている。朝、その部屋から執務室に出向くこともめずらしいことではなかった。
妃をもつなら反対はしない。だがこれでは恐ろしくて眠れないと苦情を言う前国王の妃たちに
直江は苦しげな表情で、ただ、もうしばらく我慢してくれというだけだった。
真夜中の悲鳴に誰もが怯える中、ウバールは新年を迎えた。
悪夢は続く。
高耶を糾弾する赤い瞳は、過去に犯した罪を次々と暴き、これらの罪を償えと迫った。
逃れようともがく高耶の四肢を何かががっちりと拘束している。力任せに抵抗を続け、
やっと縛めから抜け出したとおもえば、別の力が高耶を押さえつける。
爪を立て、噛み付きもしたがそれは高耶を捕らえて離さなかった。
獣のような咆哮を発し、いっそ殺してくれと泣き叫んだ。
あの目に飲み込まれたら、耳元で反響し続ける声に頷いてしまったら。
自分はきっと見境なく人を殺す。男も女も、老人も子供も。「使命」のためにためらいなく
殺し続ける。
闇の牢獄の中でもがき続ける高耶をしっかりと抱きとめる腕があった。誰かはわからない。
負けないで、とそれは言った。あなたに命を救われた人たちがいる。あなたに生きていてほしいと
願う人たちもいる。彼らのために、あなたは生きなければ。
高耶は首を振る。誰がオレに望んでいるというんだ。オレにできるのは人を殺すことだけだ。
守りたかった家族もとうにいない。待っている人間なんか一人もいない。
オレには誰もいない。オレはひとりだ。
幼い子供のように涙を零す高耶をぬくもりが包んだ。痛いほど抱きしめられて、息が苦しい。
私がいる、と声が言った。待っているから、決してあなたを一人にしないから。
だから早く、かえってきて――
赤い目は依然として高耶を凝視している。騙されるな、誰がおまえなど待っているものかと
意地悪く囁く声がする。馬鹿をみるのは嫌だ。後で裏切られるなら最初から信じない方がマシだ。
それでも高耶を呼ぶ声はどこかなつかしくて。
誰ともわからない声の主に向かって、高耶は両腕を伸ばした。
つづく
アサシン部屋