海が生命の揺りかごなら、砂漠はそれらが還るところだ。
砂は風に吹かれて常に移動する。
行く手に見えた砂の山がいつのまにか消えたとおもえば、
同じものが別の場所に現れる。
これまで幾人の旅人が迷いこみ、砂の海に飲みこまれただろう。
幾つの不運な隊商が盗賊に襲われてここに沈んでいっただろう。
ここは墓標のない墓場。常に動いている砂の海の底で
もはや誰にも顧みられることのない肉体は朽ち果て、砂に還る。
風に吹かれるままに動いて幻の山を築く。
繰り返し繰り返し。
永遠に。
複数の追っ手の気配を背後に感じながら、彼女は狭い岩窟の通路をひたすら
走っていた。袖のない白の衣服は冷気を防ぐ役には立たず、素足の裏は
尖った石などで傷だらけになっている。ここにきて無理矢理穴を開けられた耳朶も
今だ悲鳴を上げているが、寒さも痛みも感じている余裕はなかった。
つかまったら最後、待っているのは死だ。誰に聞かずともわかるのだ。
意識のない間に連れてこられたから、出口がどこにあるかなどわからない。
それ以前にここがどこであるかすら知らないのだ。
(助けて――誰か助けて…!)
迷路のように複雑に分岐している通路をめちゃくちゃに走った。だがずっと走り
続けることなどできない。息が切れて足が止まりそうになるのを叱咤して、
とりわけひとけのなさそうな通路を曲がった、その時。
すごい勢いで何かとぶつかった。
「!」
いや――ぶつかったのは人、だ。
修道僧のような、灰色のフードつきのマント。「彼ら」のお仕着せのようなものだ。
「あ・・・」
恐怖に目を見開き、じりじりとあとずさる。くるりと踵を返して、ふたたび逃げようと
したが、遅かった。
彼女を追ってきたらしい、灰色のフードをかぶった二人の男が退路を断った。
(どうしよう)
つかまりたくない。こんなところで死にたくない・・・!
極限まで追い詰められた精神状態は、彼女を自分でもおもいもよらない行動に
駆り立てた。
再び方向を変えて先刻ぶつかった人間に向かって突進し、腰に差している短い
三日月刀――アラブ人がよく腰に差しているものだ――を、男の喉元につきつけた。
「来ないで!」
手の震えを止めようと力をこめて刀をにぎりしめながら彼女は叫んだ。平和な国で
生まれ育った彼女はもちろん人を傷つけたことなどない。だがここは故国ではない。
誰の助けも期待できないこの場所で、自分は生きるために人を殺すことができる
だろうか。
もしこの「人質」が動いたら――彼女の内心の怯えに反して、男は動くことも
声を上げることもなかった。角にいる二人はなにやらアラビア語で話し合っている。
だがそれもつかの間、彼らは嫌な薄ら笑いを浮べながら、こっちに近づいて来た。
「嫌――来・・・」
「どうせなら教主を盾に取ればよかったのに」
(え・・・?)
頭上から聞えてきた、綺麗なクイーンズ・イングリッシュに彼女は目を見開いた。
その瞬間、バスッバスッと奇妙な音が2回聞こえ、正面の二人は前のめりに
倒れた。
(死んだの・・・?)
あまりのことに呆然としていると、刀を持った手を強く引かれた。
「来るんだ!」
すさまじい銃撃戦を繰り広げながらの逃走となった。男は彼女より道を知っている
のか、さして迷う様子もなく通路を抜けていく。腕を容赦なく引っ張られながら、
これは夢じゃないかと思った。まるで映画の中に入りこんだかのようだ。だが
足元を穿ち、頬をかすめる弾丸がこれを現実だと告げている。この一発でも
身体に当たれば死ぬのだ。
目の前の男は前後から来る追っ手に片っ端から発砲している。走りながら
撃っているにもかかわらず、 ほとんど一撃で倒していた。だが撃っても追っ手は
減らない。ひとけのない場所にきたとおもえば、弾丸を補充する間に近づいてくる。
「おかしいな」
と彼がつぶやいたのはその時だった。何が…とたずねようとして男を見ると、
はっとしたように彼女を見た。
そして彼女も、その時初めて男の顔を見たのだ。もっともフードに隠れてはいたが、
思ったより若い顔だった。アラブ人特有の浅黒い肌をしていたが、髪は茶色で
目も濃い茶色だ。髭もない。先刻の英語といい、どこか人種も国籍も特定できない
不思議な印象を受ける。だがなによりも強烈なのはきりりとした眉の下にある
昏い光をたたえた目だ。こんな強い視線を向けられては誰も平静でなどいられない。
実際、この双の瞳に至近距離で見つめられて、彼女の心臓はどくどくと早鐘を
うっていた。
だが彼が見つめていたのは彼女の目ではなかった。
「ちょっと見せてくれ」
言うなり、彼女の右の耳朶に触れた。
正確には、そこに嵌められている金具を。
赤い目を模したそれは、ここに連れてこられたときに無理矢理つけられた。
普通のピアスとちがって、裏の頑丈な金具が耳朶にがっちり食いこんでいて
はずすこともできない。彼もそれを外そうとしたが肉を抉られるような痛みに
ぼろぼろ涙をこぼしてやめてと懇願した。
「ひどいことを…」
男は溜息をつくと、一旦耳朶から手を離し、彼女に後ろを向かせた。
そして金具がはまった耳殻を痛いほどひっぱった。
「何・・・っ」
「シッ。すぐ終わる。動くなよ」
背後でカチリ、と銃を構える音がした。
(殺される――!?)
恐怖で身を固くした瞬間、例の奇妙な音と共に耳に衝撃が走った。
金具がついた周囲が瞬時に熱くなったが、恐れていた痛みはなかった。
何をされたのかわからず呆然としている間に彼は追っ手二人を倒し、
一人からマントを剥いだ。足早に彼女に近づくとそれを押し付ける。
「これを着るんだ。あんたの耳についていた発信機を壊したから
少しは自由に動ける。行こう」
ようやく落ちつける場所に足がついた瞬間、彼女はへたりこんで
動けなくなった。
ここは行き止まりの絶壁沿いにある小さな洞だ。つくられたものではなく、
自然にできたものだろう。
通路からここにくるまではまさに命の綱渡りだった。絶壁の下は見えず、
ただものすごい異臭がたちのぼってくる。足場と呼べるものもきわめて
こころもとないものだった。
『悪いがここで落ちたら助けられない。ゆっくりでいい。オレが行ったあとを
慎重にたどるんだ』
そういいながら次の足場を指図してここに連れてきてくれた男は、
あぐらをかいて座り、小さな懐中電燈の光のもとで弾丸のチェックを
している。マントは脱いで、顔を露にしていた。彼女もフードはとったが、
今更のように寒さを感じてマントは着たままだ。
「あ…の、ありがとう…」
ためらいがちに声をかける彼女に、青年は顔を上げた。緊張した面持ちの
彼女に、きつい印象の瞳がふっと和らいだ――気がした。
(え――?)
「あんた、度胸あるな」
出し抜けに言われて目を丸くすると、彼は今度ははっきりと唇を笑みの形に
上げて言った。
「でも自分より腕力のありそうな相手は人質に選ばない方がいいぜ。第一
あれじゃ隙だらけだ。まず髪を掴むとかして顎を上げさせ、刃物を持つ手はもっと
後ろに引くんだ。でないと腕とられるだろ」
先刻彼に返した三日月刀を手渡されてやってみろと言われ、なぜか人質の
取りかたを教わるはめになった。何度かダメ出しをされてようやくOKがでた
ときには、緊張はかなりほぐれていた。
なぜ助けてくれたのかはわからないけれど、彼は「彼ら」とは違う。
彼の名前を知りたいとおもった。
「私は武田由比子って言います。あの、あなたは…?」
「・・・日本人か?」
そうだと答えると、彼はそうか、と遠くを見る目をしたが、やがて先の質問に
答えてくれた。
「オレは高耶。イギリス人だ」
つづく
アサシン部屋