Frenzy Stage 1: 幻覚

 

2

 

 

誰かが髪を梳いている。
長く細い指の感触。女の手だ。
高耶はゆっくりと目を開けた。あたりは乳白色の霧に包まれている。
生暖かくどろりとした質感をもったそれは、生き物のように高耶の身体に
まとわりつく。

高耶の傍らに、西洋人の女が座っていた。シンプルな白のドレスに、
艶のある黒髪が膝の辺りまで落ちかかっている。高耶の髪を梳きながら、
鮮やかな赤い唇で高耶の知らない、子守唄のような歌を口ずさんでいた。

濡れたような黒い瞳は、どこか遠くを見ていた。悲しげな目だった。

視線に気づいたのか、女がこちらを見て微笑した。
高耶は目をみはった。

女の手が胸元に伸び、はだけたシャツの合わせ目から侵入してきた。
慈愛に満ちた微笑はいつのまにか淫蕩なそれに変わる。華奢な手は
誘惑するように高耶の胸の辺りを愛撫し、時々焦れたようにその陽に灼けた
肌に爪を立てる。

高耶は振り払おうとした。だが身体は金縛りにあったように動かない。

いつしか、女は直江になっていた。唇は笑みの形に裂け、夜叉の顔が現れる。

ズブリ、と男の指が胸に食い込んだ。焼け付く痛みを感じて高耶は掠れた
悲鳴をあげた。だが指はかまわず侵入して高耶の心臓を掴む。
もう片方の五指が容赦ない力でわき腹を抉った。

バリバリとむさぼる音が聞こえてくる。

自らが食われる音を聞きながら、高耶は男を見た。
彼は、首から上がなかった。

 

 

 

気がつくと、鏡に映ったとおりの光景がそこにあった。

「直江?・・・直江!」

思念派を飛ばしてみたが、応答はない。どうやら自分だけここに引き込まれた
らしい。高耶はため息をついてあたりを見回した。

食堂は薄暗かった。ほとんど消えそうに瞬いているシャンデリアにはくもの巣が
はり、年代ものの調度にはいずれも薄く埃が積もっているというのに、食卓の上
だけは今しがた用意されたばかりのような状態だった。

白いテーブルクロスをかけた長い食卓の各席には、一本ずつ蝋燭が灯っている。
いずれも今灯したばかりのように、細長いろうはほとんど減っていない。
薄暗い室内でそこだけが奇妙に明るく、食卓というよりは通夜を連想させた。

暖炉のそばに大きな柱時計があった。針は二時をさしたまま止まっている。
高耶は肖像画の前に立った。口髭を生やし、癖のある黒髪を肩で切りそろえた、
三十半ばくらいの男である。貴族の肖像は斜め前方を見つめたまま、もはや
高耶を見ることはなかった。

食堂に視線を戻すと、テーブルの端に何かが乗っている。
主席の前に白いヴェールをかけた、台足のついた銀盆である。盆の端から、
果物が盛ってあるのがわかった。

ヴェールを持ち上げた高耶はわずかに目を細めた。
果物の上に、女の首が載っていた。

きちんと纏められた髪とヴェールの間は瑞々しい、白い生花で飾られている。
丹念に化粧をほどこされた顔は少し蒼ざめてはいたが衰えてはおらず、
薄く開いた唇は今にも動きそうだった。伏せられた瞼は完全には閉じておらず、
長いまつげが頬に憂いの影を落としている。

先刻までいた現場で首だけなくなっていた花嫁だった。写真で見た、健康そうな
小麦色の肌の娘とは別人のようだが間違いない。

そのとき高耶は、唇の間で何か光るものを見つけた。冷たい口の中に指を入れて
それを取り出す。
黄金色の鍵だった。
しばらくそれをじっと見つめ、ポケットにしまった。

女の伏せられた瞳から、透明なしずくがすべり落ちた。

 

 

(やはり鏡か)

どうりであそこにしか痕跡が残らないはずだ。だが、あの部屋の鏡には問題はない。
何かあれば気づいていたはずだ。
すべての要因はこちらがわにある。つまり、ここを何とかしない限り、敵は鏡の
あるところならどこへでも現れることができるということだ。

(すさまじい《邪気》だ)

現場には僅かしか残っていなかったものと同じ気が、ここには濃密にたちこめている。
人間のものとはとても思えない、獣じみた悪意、欲望、あるいは情欲――狂気。

怨霊などという生易しいものではない。おそらく人間であったという自覚もない。
だが間違いなくそれは、かつて人間であったモノだ。

高耶は最初に立っていたところにかかっている鏡を見た。楕円形の、胸から上が
映る、年代ものだがごくありふれた鏡だ。背後にはあの肖像画が映っている。

肖像画に気を取られていた高耶は、次の瞬間はっと表情をこわばらせた。
鏡の向こうの高耶が、口の端をわずかに吊り上げている。

後じさろうとした高耶に向かって、鏡の向こうから手が伸びる。
腕は鏡を突き破り、砕け散る破片が舞う中、迷わず高耶の首を掴んだ。

 

 

 

つづく
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ひさびさのふれんじ。やっぱりぐろい・・・(爆)。