その電話がかかってきたとき、ケイはちょうど出かけるところだった。
『ちょっとケイ君、連城知らない!?』
電話に出るなり、言われた言葉がそれだった。
「え…っと中宮寺さん?」
よりによってケイに響生の居場所を聞いてくる女性は他にいないだろうなと思いつつ、
おそるおそるケイがたずねる。
『そうよ!あいつ明後日締め切りだっていうのに逃げ出しやがったのよ!!
昨日もあなたの公演観に行ってたみたいだし』
「え…?連城、来てたんですか?」
今回の公演に何度か観に来てくれていたのは知っていた。その度に楽屋に顔を出して
くれていたのだ。締め切り前だということも何かのついでに言っていた。だから昨日の
千秋楽に姿を見せなかったのは仕事のせいだと思っていた。正直言ってちょっと
寂しいとはおもったが…。
(連城、観に来てくれたんだ)
しかし桜にとってはのんびり感慨に浸っている場合ではないらしい。
『ほんとに何考えているのかしら。今回全然原稿書いている気配がないのよ。
問い詰めても大丈夫だ、締め切りまでには仕上げるっていうばかりで。
それでほとんど毎晩あなたの公演に出かけていくでしょう。』
「…すみません…」
ケイのせいではないはずだが、なぜか申し訳ない気がしてあやまってしまう。
『あらケイ君があやまることはないのよ。…そんなわけで今日こそは
椅子に縛りつけて脱稿まで見張っていようとおもったのに』
…どうやら響生はそれを察して逃亡したらしい。
『車がないから多分人里離れたところに逃げたんでしょう。でもこんな時に奈良に
行くほど馬鹿じゃないとおもうから、逃亡先はほぼ見当がついているの』
行き先がわかっているなら(そしてちゃんと原稿を仕上げてくれればだが)、
そっとしておいてもいいのだが、何しろ煮詰まると何をしでかすかわからない響生である。
『昨日あなたのところに顔見せなかったっていうのも気になるし…ねえケイ君。
あいつが生きているかどうか、ちょっとみてきてくれない?』
自分が行きたいのはやまやまだが、もし響生が執筆に集中するために逃亡したのなら
担当の桜が顔を見せるだけでも邪魔になるだろう。
「でもオレは…」
『ケイ君なら大丈夫よ。ただあいつが馬鹿な真似してないか見てきてくれるだけでいいの』
響生を心配する桜の頼みに、ケイは結局承諾してしまった。
上毛高原駅からバスにのること1時間半。終点でおりるとすぐ近くにその旅館はあった。
「こちらです」
駐車場にアルファロメオがおいてあるのを確認して、仲居の後に続く。
(一体何て言えばいいんだよ…)
マンションに行くならともかく、こんなところまで押しかけてきたら、響生は何て思うだろう。
離れにつながっているらしい、延々と続く廊下を歩きながら、ケイは早くもこのまま帰りたく
なっていた。
が、そうこうしているうちに本館から一番奥の離れに案内され、仲居は一礼して
去って行った。どうやら邪魔しないように言い含められているらしい。
ケイはしばらく逡巡していたが、庭の方に回ってみることにした。
立派な日本庭園だった。せせらぎの音がいかにも涼しげだ。
(この石とか…きっとすげー高いんだろーな)
その先の庭には、もっと高そうな鯉がたくさん泳いでいる。
感心しながら歩いていると、縁側のある部屋の前に出た。
「!」
ケイはぎょっとして立ち止まった。
雪見障子は半開きになっている。
その障子の間から、男の手が一本、無造作に突き出ていた。