蓮鼓

その2


「連…城」

縁側に、無造作に投げ出された人間の腕。
どこか血の気のないそれに、ケイはみるみる蒼ざめた。
(まさか…また何かおもいつめて…)
息を殺しながらそこに近づき、腕を取った。
冷え切っている。
息をとめたまま、傷跡の残る左手首に脈をさがした。

トクン…と微弱だが脈打つ感触に、ケイはほっと息を吐く。

その時。
「うわぁぁぁっ!」
冷たい手にいきなり掴まれて、ケイは仰天した。

障子の向こうで人影がむくりと起き上がる。
掴んだ手はそのまま、しばらくその場で緩慢にみじろきしていたが、
やがてすっと音もなく障子が開いた。

「…ケイ?」

響生がそう言葉を発したのは、みつめあってたっぷり5秒は経過した後だった。
一方、ケイも呆然としている。居候までしたことのあるケイだが、こんな響生をみたのは
はじめてだった。すこし着乱れた濃紺の浴衣は、肩幅もあり男らしく均整のとれた響生の
身体によく似合っていた。色白の額にかかる乱れた髪も、整い過ぎた男の顔立ちに
野性味を加えている。
だがケイを呆然とさせたのはその顔だ。一体何日徹夜を重ねたらこんな顔になるのだろう。
顔色は死人のように蒼ざめ、やつれきっている。頬はこけて頬骨や顎のラインが
シャープになり、眼の下にはうっすらと、だが拭いがたいくまができている。
唇は乾いてひび割れ、なによりも目が。突然のケイの出現に驚きながらも、
完全に据わっていた――

 

想像以上に大変なところに踏みこんでしまった。
適温に戻された部屋の片隅で、お茶とお菓子をいただきながら、ケイは一心不乱に
キーを叩き続ける男を眺めていた。
ともかく入りなさいと招き入れられた部屋は、はっきりいって人が住める室温ではなかった。
公共の旅館でよくもここまで温度が下げられたものだと思う。いくら雪国育ちだからとはいえ、
まるで冷蔵庫の中にいるようだった。腕をとったときあれだけ冷たかった理由もこれで
納得した。あんなところで倒れるように寝ていたのも、寝不足ゆえではなく、あまりに
ききすぎたクーラーに身体がだるくなったせいだろう。
だが一応締め切り前という自覚はあるらしい。ため息をついて落ちかかる前髪をかきあげると、
来訪の理由を聞くのもそこそこに仕事を再開した響生に、ケイは内心ほっと胸をなでおろした。
部屋の中央に置かれた長方形の机には、現在響生が形相を変えて向かい合っている
ノートパソコンが鎮座していて、そこを中心に嵐が吹き荒れているようだ。机は走り書きの
メモや本など資料が散乱しており、そのありさまは机の上だけでなく部屋全体に
及んでいる。文字通り足の踏み場がない。いまケイがちんまりと座っている場所も、
あてがわれた座布団を片手に何とかスペースを確保したものだ。
長く形の良い指先が、休むことなくキーを叩きつづけている。画面を睨む目は真剣そのものだ。
触れれば切られそうな緊迫感を身体中から発している。ケイがここにいることすら思考の外に
追いやってしまったかのようだ。
(そういえば、仕事をしている連城をまともにみたのってはじめてだ…)
居候をしていた間は、なるべく顔を合わせないようにしていた。その前後も家におしかけた時
何度かは仕事中だったこともあったが、 それほどせっぱつまった時ではなかったのだろう
(とおもいたい)、いつも仕事を中断して、ケイにつきあってくれた。
だがあの苦悩と逡巡に満ちた作品の数々が、なまなかなことでは生み出されるはずは
ないのだ。響生の小説の主人公達の気持ちを、まだ全部が全部わかるわけではない
ケイだったが、なぜだろうとおもいつつ、読んでいると心臓をじかに掴まれたように苦しくなる。
なんでそんなことで苦しむのか、なぜそんなに自分を追いつめるのか。今のあんただって
十分じゃないか。ほんの少し自分を認めてやれば楽になれるのに。身も心もぼろぼろになっても
なお高みをめざして、ついに望むものを手にすることなく自滅していく人物たちに、ケイは
完全には理解できないながらもひきつけられる。救われないであがく登場人物達は皆響生の
代弁者のようで、 理解できないからといって放り出すことができなかった。
響生は黙々とキーを打ち続けている。無心に文章を綴っているように見えるが、蒼ざめた表情に
時折苦渋のようなものが浮かぶ。文章ひねりだすのに悩んでいるのではなく、書いた文章に
痛みを感じているようだ。それでもキーを叩く指はとまらない。たとえ己の文章に切り刻まれても
書かずにはいられないという気迫がそこにはあった。
そこに居合わせたものは誰もが気圧されるだろう、凄まじいほどの集中力。目をそらしていても
伝わってくる、そんな<気>を発する人間は、ケイは他に一人しか知らない。
こんなところでも。二人は、響生自身が思っているよりもよほど近い近いところにいる――

 

「ケイ」
不意によばれて、はっと我に返った。
外を見ると、もうだいぶ日が傾いている。
あれから声をかけるどころか、身動きすることすら憚られたケイである。
響生は液晶画面から目を離さぬまま、数時間ぶりに口をひらいた。
「風呂に入ってきたらどうだ。廊下を左に真っ直ぐいったところに露天風呂がある。
上がった頃に夕飯が来るだろうから、先に食べていい。 」
だが、さすがにそっけないとおもったのか、漸く顔を上げて、表情をすこし和らげた。
「…悪いな、退屈させて」
「そんな!オレこそいきなりおしかけて!」
ケイはあわてて首をふった。仕事をしている響生をはじめてまともにみて、いろいろ考えて
ぼんやりとはしていたが、実際退屈などしていなかった。
そんなケイの様子に、響生は今度こそ優しく微笑みかける。
「隣の部屋に布団がある。疲れて眠くなったら自分の分だけひいて寝なさい。俺は
何時になるかわからないから」
たぶん今夜も徹夜だろうな、とため息をつきながら、響生は再び自分の仕事に戻った。
ケイは着替えの入った荷物を持って、そろそろと部屋を後にした。

 

「うわ…すげぇ…」
木の香りがするような、きれいな木造の風呂で身体を洗い、いざ露天にでてみると、
いままで見たことのないような幻想的な光景が広がっていた。
まだほのかに明るいものの、中にいるあいだに日は沈んでしまったらしい。
夜になりかけた露天風呂のまわりにある灯篭や提灯に火が灯っている。
風呂の周りを囲んでいる大きな石や植え込みがところどころライトアップされている
のだが、明るすぎないように光度そのものは落とされている。その風呂もまた
大きかった。30人くらいは入れそうな広さだが、入っているものは誰もいない。
また、一見して、脱衣所でも誰かが入った形跡もなかった。
「まさか貸し切りとか…」
こんな広い露天風呂を?ひとりで?
――あの男なら平気でやりかねない。
とにかく今は確かに自分ひとりだ。それ以上深く考えるのはやめて、湯に浸かった。
適温の湯が何だかんだで疲れていたケイの身体を包み込む。浸かっているだけで
強張った身体がほぐされていくようだった。やわらかい灯篭の光が水面に映っている。
誰もいないしと、泳いで場所を移動しては景色を楽しむ。
(あいつもこれが気にいってここにくるのかな)
桜によれば、ここはなじみの旅館のひとつらしい。
確かに、奈良の古寺や仏像に心が癒される響生ならば。こんな純和風の静かな
場所で、執筆でささくれだった心を宥めるのに違いない。
結局、すっかり暗くなって、都会ではみられないほどたくさんの星が瞬き出すまで
ずっとそこにいた。

 

離れに戻ってくると、響生がいる部屋とは別の部屋にきちんと二人分、食事の用意が
してあった。響生は相変わらず声をかけられない雰囲気だったので、ケイはひとりで
夕食を食べた。それから響生のいる部屋に戻ってそこに散らばっている資料などを
広げたりしていたが、夜中に近づくにつれて、眠くなってきた。
(今書いているやつ、読めたらいいのにな)
今書いているのは、単行本の書下ろしらしい。できたてほやほやの作品を一番に読める。
これはなかなか魅力的だ。それでなくても響生の小説は全部読んだケイだ。響生の
作品であれば、読みたい。だが響生が打ちこんでいるのはノートパソコンだ。プリント
アウトしたものはなかった。
響生はまだまだ手を止める気配はない。ケイはそっと立ち上がった。

自分の分の布団を敷いてから悩むことになった。
布団は予備のためか、もう一組ある。
あの男が今夜布団で寝る余裕があるかどうかは限りなく疑問だが、一応 自分のと並べて
敷いておくべきだろうか。響生のいる部屋でがさがさやるわけにはいかない。かといって
布団だけ隣の部屋においておいたのではお前はここに寝ろと言わんばかりだし…。
ケイは真剣に悩んだ。正直言って同じ部屋に寝るのはかなり身の危険を感じる。けど――
ディスプレイに真剣に向かい合っている響生が頭に浮かんだ。目に見えない何かと
闘っているような、無心に足場のない岩壁をよじ登っているような――
ケイは何かを振り切るようにもう一つの敷き布団を抱えると、自分の布団から少し離して敷いた。

さりげなく空調が効いているせいか、浴衣を着て寝ても寝苦しさは感じない。タンクトップに
トランクス一枚でも暑苦しくて眠れなかった自分のアパートとは大違いだ。
耳をすませると、僅かに明かりがもれる隣の部屋からわずかにカタカタとキーを叩く音がする。
隣に敷いた布団は当然、冷たいままだ。おそらく明日目を覚ましたときにもこのままだろう。
なんだかいろいろ考えて焦った自分が馬鹿みたいだった。
(俺が役を演じて…榛原が表現するように――あんたもそうやって闘ってるんだな…)
自分を超えるために。渇望しているものを今度こそ掴むために。
眠りが意識をさらうまで、微かに聞こえてくるキーを打つ音を、ケイはずっと聞いていた。

 

 

つづく
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