蓮鼓

その3


せせらぎの音で目が覚めた。
見なれない天井に、最初ここがどこだかわからず、ケイは布団を被ったまま
ねぼけまなこで考えこんだ。

(連城の様子を見に来たんだっけ…)

群馬の奥地にある旅館の離れだ。水音は庭に流れる小川から聞こえて
くるらしい。
隣をみると、そこにしいておいた布団はやはり、寝た形跡がなかった。
襖の向こうに耳をすましてみる。だが、昨夜ケイの子守唄となったキーを
打つ音は今は聞こえてこない。
襖をそっと開け、響生の臨時の仕事部屋となっているその部屋の様子を
窺った。
すずめの声が朝を告げている。朝の清冽な光が雪見障子ごしに、幾分
ひんやりとした空気に差し込んでいた。
パソコンの稼動音が微かに聞こえてくる。響生は画面が真っ暗になった
ノートパソコンの前に突っ伏して眠っていた。
よほど疲れているのか、固い机に伏せた頭は先ほどからぴくりとも動かない。
濃紺の浴衣の上からもはっきりとわかる逞しい肩も、少し乱れて顔に落ち
かかる薄い色の髪の毛一筋、まったく動く様子がないのでケイは少し不安に
なった。

「連城…連城」

肩を揺さぶると、響生の眉根が僅かに寄った。閉ざされていた口が僅かに
開き、声にならない言葉を紡いだ、ような気がした。

「・・・え?」

聞き取ろうと顔を近づけたその時。肩を揺すった腕をいきなりとられた。

「なっ…嫌――」

驚いて身を引こうとするが、響生の腕は思わぬ強い力でケイの身体ごと引き
寄せる。有無を言わせぬ力が「あの時」のことを思い出させ、ケイは目を
見開いたまま硬直した。
お互いの鼻がぶつかりそうな距離で、二人の視線が合う。ケイはつかまれた
上腕の痛みも忘れて、琥珀色の瞳の中に見える激しい炎を見つめた。
だがそれはほんの一瞬のことだったかもしれない。

「――ケイ?」

今気がついたというような口調で呼びかける響生は、もういつもの静かな目を
していた。腕の拘束もいつのまにか解けている。ケイはほっとして――そして
自分たちがごく至近距離に顔を近づけているのに気づき、あわてて身を離した。

「あ、あんたがあんまり動かないからっ」

すっかり目が覚めたらしい響生は、ケイの慌てぶりに微笑んだ。

「心配してくれたのか」
「そ…そんなんじゃ」
「いいから――ケイ」

言いながら響生は乱れた髪をかきあげながら立ち上がった。そのまま部屋を
出ていこうとする響生に、ケイは不安げな眼差しを向ける。また何か気に触る
ことをしたのだろうかと、無意識に追い縋るケイの視線に、響生は振り返って
苦笑した。

「風呂に入ってくる。その間に着替えなさい――その格好は目の毒だ」

そう言ってぎこちなく目をそらし、廊下を歩いて行ってしまった。

(格好…?)

言われて改めて自分の格好を見て――赤面した。
どうやら自分の方こそ寝ぼけていたらしい。昨夜は備え付けの浴衣を着て寝た
のを今まで忘れていた。普段からあまり寝相がいいとは言えない上、浴衣も
着慣れてないケイの浴衣は見事に胸がはだけ、脚は着崩れた合わせ目の
間からしどけなく露になっていた。ケイはそそくさと襟をかきあわせると、隣の
部屋に着替えを取りに行った。

 

TシャツとGパンというごくラフな格好に着替え終って仕事部屋に戻ると、
当然というかまだ響生は戻っていなかった。画面を暗くしたまま、静かに稼動
し続けるパソコンに、ケイの注意はひきつけられる。
あの機会の中に、どんな精神世界が繰り広げられているのか。そこであの男の
創造物達はどんな葛藤をしているのか。作中人物たちの苦脳はそのまま響生の
苦悩でもある。 この作品を書くことで出口は見つかったのか。彼等は少しでも
救われているのか。知りたい。

勝手にまずいかな、と思いつつ、マウスに手が伸びる。動かした途端、ウィン…
と微かな音を立てて、画面が明るくなる。
話は、まだ完結してないようだった。最後の文から数行前の文章が視界に飛び
込んできて、ケイは目を見開く。スクロールして最初から読んだ。
読み進んでいくうちに、視界が曇った。画面を見るのを邪魔するそれは、見開いた
ままの両目からぱたぱたと落ちた。

響生は、なかなか戻ってこなかった。

つづく
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