The Spell

13


    

 

 

その夜。松本に戻った高耶は女鳥羽川沿いの寺の境内で胡坐をかいてすわり、印を結んだ。
目の前には白い和紙に乗せた「初枝」の遺髪がある。

「オン・ベイシラマンダヤ・ソワカ、オン・ベイシラマンダヤ・ソワカ…」

三十年間毘沙門天の霊域の下にあったことで、この真言には影響を受けやすくなっているはずだ。
案の定、高耶《気》の高まりと共に髪の周りに陽炎がたちはじめる。

高耶は気を溜めるとかっと目をみひらいた。

「この髪の主を召還したまえ!」

ボッ!と音を立てて髪が青い炎に包まれた。
触れても熱くはない。だがこの髪の主は灼かれるような苦痛を味わっているはずだ。

青い炎は悶えるように高耶の目の高さにまで燃え上がり、やがて少女の声で口をきいた。

――こんなことをせずとも逢いにまいりましたのに…。

恨みがましい少女の声。忍の声と似ているが別人のもののようだ。
炎に包まれるのが苦しいのか、聞こえてくる声はとぎれとぎれだった。

「逃げないためだ。直江を開放すればすぐにでも楽にしてやる」

生身で会っている時とは違って、術で呼び出されている間は勝手に逃げることができない。
相手の《力》の強さにもよるが、髪の毛という形代があるならなおさらだ。

――私の言いたいことはすでに申し上げました。

炎の責め苦をじっと耐えながら、少女は依怙地に沈黙する。

 

「オレはあんたのいう幸福なんか望んでいない」

高耶は炎を睨みつけた。
使命という大義名分で生き続けた四百年。
決して安穏と過ごしてきたわけではないが、大義は高耶に居場所を与えた。
生きてすべきことをなせと――換生という、人の身体を奪ってまで生きることに対する
免罪符を与えてくれた。

だが今は、それらすべてをなげうっても確かめたいものがある。
この世界でもっとも信じられないもの――だがそれが真に存在するのなら、
たとえ息絶える前のほんの一瞬でもいい。
この手で触れて確かめたい。
生温い一時の幸福などに甘んじる気はなかった。

 

――望んでないなんて嘘。本当は誰よりも飢えているくせに。

 

「!」

目を剥く高耶に、炎の声は憐れむように語りかける。

――何を犠牲にしてもと思いながら、エゴを通す罪悪感を拭うことができない。
幸福を得る権利どころか、ただ存在することさえも許されないとおもっている。
望む資格がないとおもっているから、望むまいとしているだけ。

「黙れ!」

ブンッと風が空を切った。
炎が割れ、悶えるように大きくうねった。

しかし一度饒舌になった炎は苦痛の呻き声を漏らしながら話をやめない。

――あの男にはどうにもできない。幸福を与えることを望んでもあなたがそれを望まない。
だったら私があなたに理由をあげる。
かけらの良心の呵責なくそれを求められるようになるまで、私はあなたから離れない。

 

記憶がなくても人ですらなくなっても――

 

 

「・・・あなたを永久に守り続ける」

 

 

いつの間にか、直江が背後に立っていた。
            

 

続く

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やっとこさ直江登場〜