まだ梅雨入りもしていないというのに、外は真夏日のようだ。
日差しはそれほど強くはないが、大量の湿気が連日の蒸し暑さをつくりだしている。
今年の気候はどこかおかしい。
クーラーの効いた喫茶店でアイスコーヒーを飲んでいると、入り口でカランという軽やかな
音を立てて、待ち人が入ってきた。
「ハイ直江。相変わらず暑苦しいカッコしてるわねぇ〜」
余計な一言と共に向かいの席に座ったのは、夏らしいオレンジ色のアンサンブルに
タイトスカート姿の門脇綾子だった。やってきた店員にオレンジジュースを注文すると
直江はさっそく切り出した。
「それでなにかわかったか」
綾子はうーんと首を傾げた。
「みたところは普通の女の子よ。『生き返って』から人格がかわったとかいっていたけど
換生も憑依もされていないわ。明るいし素直だし宿題はちゃんとやるし、どこかのだれかさん
とは大違いね」
「晴家」
フォローのしようがないが、直江は軽く咳払いをして咎めた。
「でも…確かにちょっと気になることもあるのよ」
直江の咎め立てなどまるで意に介さず、綾子は続けた。
「単に性格上の問題かもしれない。それなら私たちが関知することではないんだけど・・・
手先が器用みたいで、マスコットの人形とかつくるのが趣味みたいなの。で、その話を
しているときとか、あとふと何かの拍子にみせる表情がね…」
部屋の電気や卓上スタンドの光のせいだろうか。綾子でさえうすら寒くなる表情を浮かべる
時がある。ほんの一瞬だが。
「まあ今時のコだっていろいろあるわけだし、魂魄が多少濁ってたって不思議はないんだけどね。
念のため、もうちょっと彼女をみているわ」
直江の実家、光厳寺に一人の若い女が訪ねてきたのは一ヶ月前のことだった。
山内静と名乗るその女性には忍という高校生の妹がいるという。
妹の忍は生まれつき難病を抱えていて、1年前まで病院でほとんど寝たきりの
生活を送っていた。1年前、病状が悪化し、一度は心臓が停止した。
医者が死亡の診断を下したしばらくあとで、忍は目を覚ました。
家族は仰天したが、なによりも忍の生還を奇跡だと喜んだ。
妹はみるみる元気になり、病気は完治したわけではないがとりあえずなりを潜め、
学校に通えるようにまでなった。
――でもどこか変なんです。
相談にきた女性は声をおとした。
――1度死ぬような目にあったんですもの。性格が変わることだってあると
おもっています。妹は確かに明るくなりました。でも――時々、あの子が・・・
とても、怖いのです。
まるで、まったくの別人が妹の身体の中にいるような――
話を聞いた直江は真っ先に憑依の可能性を疑った。
死にかけた人間に憑依、あるいは換生するのは怨霊の常套手段だ。
報告の電話で高耶にその話をして、忍に会いに行く旨を伝えると
高耶はなぜかしばらく沈黙した。
――おまえは行くな、直江。
電話の向こうの思わぬ言葉、直江は怪訝に眉をよせた。
――景虎さま、ですが…
――うまく言えない。嫌な感じがする。とにかくおまえは行くな。
高耶は頑なだった。しかし初対面の高校生の少女に会うにはそれなりの
口実がいる。しかも相手は憑依されていると決まったわけではない。
高耶がいきなり会いに行くのには無理があった。
直江は少し考えて、小さく息をついた。
――わかりました。晴家に家庭教師になってもらいましょう。
高耶は何を思って直江が会いに行くことを止めたのだろう。
だが晴家の言葉を聞く限り、ことは直江が予想していたような簡単なものでは
なかったようだ。もっとも、すべては取り越し苦労という可能性もまだ大いに
残ってはいるが…。
(嫉妬とか…そんな理由ではありえないな…)
口調はそっけなかったが、純粋に直江の身を案じてのことだとわかる。
それはそれで嬉しいのだが…。
などと考えながら、何気なく窓の外の人の流れを眺めていた。
平日の昼下がりだ。通行人の中には制服姿の少年少女もちらほらと混じっている。
窓から数メートル離れた歩道に、セーラー服姿の少女が立っていた。
見知らぬ少女だった。前髪を切りそろえ、見事な艶のある黒髪を胸元までたらしている。
彼女はまっすぐ直江を見ていた。
直江の視線をとらえると、少女はニッと笑った。
細い指先は、なにか光るものを持っている。
その手を、反対側の手元に無造作に振り下ろした。
ガチャン!!
グラスの割れる音と誰かの悲鳴が響き渡った。
「直江!?」
トイレへと席を立っていた綾子があわてて戻ってくる。
「直江っ、ちょっとどうしたのよ、しっかりして!」
抱き起こそうとするが、床に倒れた直江は左胸を押さえたまま答えられない。
頭の中で、少女の甲高い笑い声が響いていた。