「――!」
風呂から戻ってきた高耶は、部屋のノブに手をかけようとしたまま、びくりと固まった。
(何だ?)
一瞬、誰かが強く自分を呼んだ気がした。直江ではない。
(ねーさん…?)
ほどよく空調がきいた室内に入りながら高耶は表情を曇らせた。綾子には山内忍の
様子をみながら、変死した忍の高校の教師について調べると言っていたが、特に
進展はなさそうだった。たとえその教師の死が自然死ではなく殺人だったとしても
そう簡単にやられる綾子ではない。もし霊がらみであれば必ず何か言ってくるはずだ。
だが一度よぎった不安はなかなか消えない。部屋に入るとわずかに開いた窓から
空調のそれではない、外の風が入っていた。畳の部屋の中央には布団が二組。
高耶が湯をつかっている間に敷かれたらしい。
「直江?」
ほてった身体にそよぐ風を心地よく感じながら、高耶は窓の外にいるはずの男を呼んだ。
だが答えはない。不審に思いながら微かに揺れるカーテンをくぐって首を出すと、浴衣姿の
男は眼前にひろがる暗い海を眺めていた。道路を隔てた向こうは琴が浜だ。夜の静寂は
波の音をここまで運んできそうな気がする。
洗い髪を微風にあそばせている直江の横顔に、高耶は息をのんだ。手すりに軽く両手を
つき、佇んでいる長身の姿は悔しいほど様になっている。遠くをながめる端正な顔は
完全に均整がとれていてわずかなゆるみもない。
その誰よりも見慣れたはずの顔が、今、まったく別の人間のものに思えた。
景色ではない、どこか遠くのものを眺めながら、鳶色の瞳は冷酷な光を宿し、口端は
嘲笑の形につりあがっている。 小動物を嬲って愉しんでいるものの目だ。初めて目にする
表情に、高耶の言葉は喉元で凍りついた。
だが背後の気配に気づいたのか、あるいは最初から知っていたのか、男は振り返ると
いつもどおりの表情に戻った。
「―高耶さん」
呼ぶ声もいつもと同じだ。直江は軽く眉をひそめると、高耶の方へと歩いてきた。
手を伸ばされて思わず後ずさると、困ったように微笑んだ。
「また髪を乾かしませんでしたね?毛先から雫が落ちている」
「あ…」
「だめですよ、このままだと風邪をひく」
高耶が持っていたタオルを取り上げると、有無を言わさず髪を拭き始めた。慣れた手つきで
一房づつ取っては水分を取っていく。素早く丁寧に動く大きな手の心地よさに、高耶も
素直にされるがままになった。
指で掬って乾き具合を確かめてはいおしまい、と開放されると、ふいにぬくもりが離れた。
無意識に顔を上げた高耶がどんな表情をしていたのか、直江はふっと微笑むと、高耶を返した
タオルごと抱きしめた。
「なお・・・」
「そんな表情をしないで。ずっとそばにいますから」
ぬくもりを与えながら直江は言う。
「もう二度とあなたを悲しませたりしないから」
想いをこめて唇をおとす―高耶の額の上に。
「必ずあなたを幸せにしますから」
この上なく真摯な言葉を、高耶は腕の中で聞いた。
双眸に険しい光を宿しながら。
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一見あまあま?(笑)