アムネジア
8
二人乗りができて、しかも花の国一の駿馬だぞ、とフルールが自慢していただけあって、 天馬は二人を乗せて長い旅路を一気に駆け抜け、馬車で向かう半分の時間で、花の国へと到着した。 甘い香りが漂う常春の花の国は、冬が近づいた今の時期でも、まだ暖かかった。 今は夜半過ぎ。月の光が花々を蒼く照らしているが、花の精たちは皆寝静まっている。 フルールの従者ミントが伝書鳩を飛ばしておいてくれたおかげで、甘い香りのするハンサムな侍従が 二人を出迎えてくれた。 部屋にご案内しますという彼に、すまないが一刻も早く弟を温泉に連れて行きたいからと言って、 ジルはエアの手を引き、花園の迷路の先にある、ピンクの泡に包まれた温泉へと足を運んだ。 「何もこんな夜中に入らなくてもさ…」 「兄」だという、自分そっくりのそのひとに、されるがままについてきたが、 炎属性ゆえに、足元も見えない夜の水場に入るのは、本能的に怖い。 無意識に後ずさるエアの腕を、ジルはとらえて、優しく抱きしめた。 「大丈夫。きみも温泉は好きだろう?もう二度と湯の中に落としたりしないから、僕を信用して」 髪を撫でられ、ひたいに口づけられると、なぜか逆らう気を削がれてしまう。 そのまま服を脱がせようとするのを断って、エアは自分で服を脱いだ。 同じく裸になったジルの腕にしがみつき、それでもなお、底の見えないピンクの泡の湯に、 入ることをためらっていると、突然横抱きに抱えられ、一緒に湯の中に入らされた。 「えっ、ちょっ…」 おもわずジルの首にしがみついたエアの身体が、きめの細かい泡に包まれる。 甘い香りとぬくもりに包まれ、それまで緊張していた身体の力をほっと抜きかけたその時、 激しい頭痛がエアを襲った。 「うっ…あああっ!」 「エア」 ジルの腕の中で、エアは頭を抱えてうずくまった。 頭は割れるようで、身体は燃えるように熱い。 こんな状態の自分に触れるのは危険だろうに、ジルは苦しんで暴れるエアをしっかりと抱きしめて離さない。 やがて頭痛が収まり、身体の熱が普段どおりに戻って、身体の力が抜けるまで、 ジルはずっと髪を撫でて、名前を呼んでいてくれた。 頭痛がなくなると同時に、今まで思い出せなかった、ジルに関するいろいろな思い出が、 当たり前のようによみがえっていた。 同時に、今、自分を抱きしめてくれている最愛の兄、ジルに対する苦しい想いもまた。 「僕のこと、思い出した?」 湯と泡にしっとりと濡れたピンクの髪を愛おしげにかきあげながら、ミントキャンディ色の目が覗き込む。 「ジル…」 エアは瞳を潤ませ、大好きな兄の首に両腕を巻きつけ、返事の代わりに、想いをこめたキスをした。
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