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このところ、城内には漠然とした不穏な空気が漂っていた。
いや、不穏という段階でもない。出不精な城主は相変わらず城内に留まっているし、
王宮にいる国王は病状こそおもわしくないものの、今日明日中にどうにかなるという
容態でもない。国政は王の側近と第一王子が代行している。11月に入って少しは
涼しくなったものの、日中40度を越す気温は相変わらず、城から見えるルブ・アル・ハリ
砂漠の地平線に陽炎をつくっているし、城主が動かない城内はいつも同じ生活の
繰り返しだ。
だがそれでもやはり、ここ一週間の城内の雰囲気は奇妙だった。それも王宮から
第一王子が遣わしたイエメン人の舞踊団が来てからだ。 まず王子が部屋を移った。
王子の部屋は4つある。だから別に部屋を変えたとて何ら不思議はないのだが、
元いた部屋に警備の者を置くとなると話は別だ。そしてその部屋に、側近の
アジュラーンが出入りしている。出入りといっても、礼拝の時以外はほどんどこの部屋に
篭っている。 中で一体何をしているのか、そう簡単に中の音が漏れないはずの部屋
――しかもおそらく寝室から、かすかな悲鳴が聞こえてくる。そして、部屋から出てくるのは
いつも、彼一人だ。
だから、その時その部屋の見張りをしていた男たちは少し気を抜いていた。アジュラーンは
今朝は城主の名代で王宮に出かけている。彼らはもともと直江が得意ではなかった。
乳兄弟としてイギリスにいる頃からザイードと共にいた男で、その卓越した政治手腕と、
見かけによらない剣の腕で、ウバールに来てからの王子の地位を確立してしまった。
物腰はいつも穏かで声を荒げることもなかったが、薄い鳶色の瞳の奥にはいつも人を
拒絶しているような冷たさがあった。感情表現の豊かな、悪く言えば血の気の多い彼らに
とっては、直江の見かけだけの穏かさは何を考えているのかわからない不気味さを
感じていた。誰もが直江の実力や人望を認めてはいたが。
その上、この部屋に篭るようになってからの彼はさらに近寄り難くなった。普段の温和の
仮面が剥がれ落ち、まるでひとが変わったような表情になった。鳶色の瞳には今まで
見たことのない激しさがある。それはある時は苛立ちだったり、ある時は憤怒だったり
した。部屋から出てくる度に生傷をこしらえていて、右手に血の滲んだ布を巻いていたり、
半ば襟に隠れた首筋に引っ掻き傷や噛み跡をこしらえていることもあった。
鬼気せまる形相に、王子の部屋を拷問部屋に使うなとは誰も言い出せなかった。
言い出せないまま、この部屋の周囲にはどこか陰惨な空気が漂うようになった。
だがその当人である直江は今外出中だ。彼等はちょうどこの時間帯に当たったことを
ひそかに喜んでいた。
だから、部屋の中からの手を貸してくれという声にもごく気軽に応じた。先刻ワゴンを
押して入っていった少年の声だ。彼らは顔を見合わせると、ひとりが頷いて部屋の
中に入った。
ドアが閉まる前に、短い悲鳴が上がった。
間髪入れずに銃を構え、もう一人の見張りが中に入る。だが何が起こったのかを
知ることは永遠になかった。
彼らはむしろ幸せだったかもしれない。黒の長衣に身を包んだ、死神のような
顔色をした、瞳だけがぎらぎらと輝く悪魔の顔を見ることなく逝けたのだから。
まるで血に飢えた獣だった。
二人目は声をあげることもできなかった。一人目は故意にあげさせたのだ。
たっぷり3秒ほど経ってから、2体の死体が床に転がる。高耶は素早く退いて返り血を
避けると、血がべっとりとついた短剣を布で拭った。
高耶が来ているのは直江の長衣だ。返り血を浴びるへまはしないが、白地に
血がつけばひどく目立つ。刃についた脂肪や血液を拭き取ると、高耶は滑るように
廊下を進んだ。
一歩歩くごとに激痛が襲った。身体中の関節が悲鳴を上げている。
まるで自分の身体ではないようだったが、高耶自身もわからない衝動が彼を駆りたてていた。
ぎりぎりまで追い詰められた者が時として獣と化すように、今の高耶を支配しているのは
何が何でも生き延びるという意志だった。
――人から生きる権利を奪っているくせに。
――あなた一人が許されるとでもおもっているんですか。
まるで何かの復讐のように、直江は徹底的に高耶を辱めた。ぎりぎりのところで保っていた
矜持さえも粉々に踏み潰し、床に這いつくばらせて、恥辱に満ちた懇願をさせられた。
もっとも卑屈なやり方で、直江への隷属を誓わされた。だが高耶は認めてはいない。
(このままでは終わらせない)
苦痛さえも怒りに変えて、高耶は廊下を進み続けた。
王子の部屋は4つ。だがその全てに見張りを立ててはいるまい。案の上、部屋はすぐに
見つかった。やはり見張りが二人立っている。
高耶の唇から光るものが飛んだ。首筋にそれを受けた男がくずおれる前にもう一人の
男の懐に飛びこんだ。返す刃でもう一人にとどめを刺す。ドアを開けて絶命した身体を
中に押しこんだ。それらが鈍い音を立てて床に転がる前に居間の奥へ進む。絨毯の上に
座っていた王子は怯えたように後じさった。高耶が近づくと、たまらずに逃げ出そうとしたが、
上体を起こす前に床に縫いつけられた。
ザクッと音がして、王子の首ギリギリを通った短剣が絨毯に突き刺さる。
恐怖に大きく見開いた両目に、底無し沼のような深い色の瞳が除きこむ。
「聞きたいことがある」
「聞きたい…こと…?」
「そうだ――直江は何者だ?」
虚ろな目をして、彼は話した。話を聞くにつれ、高耶の唇はつり上がった。もう2、3必要な
情報を聞き出すと、高耶はそばにあるグラスを取った。中には3分の1ほど真紅の液体が
入っている。ワインに見えるが、別の飲み物だろう。
「あんたには悪いが、これ以上生きていられちゃ困るんだ。だけどせめて苦しまないように
逝かせてやるよ… 」
グラスの中身を口に含むと、高耶はゆっくりと唇を重ねていった――