16
月の明るい晩だった。
アリはラクダを走らせていた。広大なルブ・アルハリ砂漠を、ただ漠然と。この時期なら
夜になると17度くらいにまで下がるが、不思議と寒さは感じない。月の光に白く浮かび上がる
ような砂漠には誰一人いない。
自分はなぜこんなところにいるのか。供も連れず、こんな夜中に。
一体どこへ向かおうとしているのか。
わけのわからない不安に駆られて、ラクダを止めて引き返そうとした、その時。
地平線の向こうから砂埃が見えた。誰かがこちらへやってくる。
砂塵はやがて黒い点になり、さらにラクダと黒衣の人間になった。遠目でもわかる、印象的な
黒曜の瞳が、アリをまっすぐに見据えている。目鼻だちがはっきりみてとれるようになり、
なおもその瞳の光の強さに見入っていると、遠くから羽音が聞こえてきた。
青年がふわりと舞い上がる。ラクダに乗っていた彼は、背に大きな漆黒の翼を持った
天使になった。彼は夜空に溶けこむように翼を広げ、あっという間にアリの側まで来ると、
バサバサと羽音を立てて目の前に降り立った。
――俺を殺しに来たのか。
青年の手には、月の光を受けて蒼光りする、大きな鎌が握られていた。蒼ざめた顔色をした
天使は、ものも言わずに鎌を振り上げた。
――待て。最期の望みも叶えてはもらえないのか。
言いながら自分でも驚いていた。国境の荒くれ部族達を相手取っているこの俺が、闘いもせずに
こんな若造に膝を屈するなど。今までにはありえないことだ。
だがこのときのアリは、なぜか目の前の相手には勝てないと――無意識に理解していた。
それまではたとえ死神相手でも自分は闘うだろうと信じていたが…。
――聞いてやる。
青年が初めて口を開いた。ぞくりとするような、艶と冷気を含んだ声。そして底知れぬ深い色の
瞳が彼の心の奥底を貫く。一度だけでいい。彼を自分のものにしたい。
もっと他に望みはあるだろうに、アリは目先の欲望に忠実だった。
あるいは死神を抱いて死ぬならそれもまた一興、と思ったのかもしれない。
アリの願いに、青年は微かに笑ったようだった。
――幻滅するかもしれないぞ。そんなんでいいのか。
彼はかまわないといった。欲望を遂げずに後悔するよりはずっといい。
男の欲望の対象に望まれた当の青年は、だがあっさりと頷いた。
――わかった。おまえの望み、聞いてやる。
再び大鎌が振り上げられ――今度は止まることなく振り下ろされた。
「…子…王子?」
傍らから呼ぶ声にはっと我に返った。クーラーの効いた車の中だった。窓からは苛烈な日差しを
受ける砂漠とワディが見える。 軍事基地に視察にいった帰りだった。
同行したアーメドが心配そうにこちらに顔を向けていた。盲目にも関わらず、様子が変だと察した
らしい。
「ああ…なんでもない。ちょっと夢見が悪くて…な」
「夢…?どんな夢です?」
夢と聞いてアーメドがぴくりと反応する。アーメドは予言者だ。だからたいていの夢は
読み解いてしまう。聞かれてアリは考えた。だが思い出せない。
昨日のあの青年が出てきたような気もするが…。
そう答えると、アーメドは呆れたように吐息した。
「いくら私でもそれでは何もわかりません。あれほど夢は覚えておいてくださいと
お願いしているのに 」
アリは笑った。王族の一人として戒律は守るが、決して迷信深くはないアリだ。
アーメドを側に置くきっかけとなったのも、「あなたは王にはなれない」と言い切った
からだ。ふつうならその場で首が飛んでも文句は言えない暴言だが、そこまで断言
するなら、その予言を目の前で覆してやろうと思った。
だがそんなことよりなによりも、アリはこの人の気持ちに聡い青年のことを気にいって
いた。
「そう言えば、昨日の優勝者――今日の夕食にも招いたそうですね」
「ああ」
ラクダを身体の一部のように操っていた青年は、近くで見るともっと印象的だった。
この身体であの頑健な男達を退けてきたのか、とかなり驚くと同時に興味が
沸いた。商人の息子で、かなりいろいろな地を渡り歩いているのだという。
だが身の上話よりも何よりも、あの一対の瞳がアリの心の琴線を弾いた。
夢に見るまでに強烈なそれを欲情と知るまでに一晩を無駄にしてしまったが――
(今夜は逃がさない)
決意を固めるアリの傍らで、アーメドはそっと息をついた。
夕食の後、私室にいたアリに、召使が彼を連れてきた旨を告げた。
振り返ると、先刻夕食を共にした黒衣の青年がそこに立っていた。王子に向かって
ゆっくりと礼をする。左胸にあてた手が少し震えているようだった。だが夕食の間中
彼の伏目がちだった目元や唇、顎から喉にかけてのラインを眺めては下半身を
熱くしていたアリだ。手加減してやるつもりは毛頭なかった。ひかれたのはあの瞳だ。
力ずくでねじ伏せ、身も世もなく喘がせたくなるではないか。
いつまでも顔を上げない青年に、アリは倣岸に命じた。
「来い」