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「王子、アジュラーンさまがお見えになっておりますが」
「追い返せ」
「は…しかし王子の御命に関わる事だからと…」

アリは忌々しげに舌打ちした。夜明けの礼拝から一時ほどたった頃である。
昨夜、衝動的に欲した青年と一夜を共にしたはずの彼の機嫌は、すこぶる悪かった。


 

 

先日のレースで鮮やかに勝利を収めた青年はアリの脳裏に鮮烈な印象を刻み付けた。
そのときは遠目だったが、近くで見れば見るほど上玉だと思った。王子である彼には
6人の妻がいるし、別にとりたてて男色好みというわけでもない。容姿が綺麗な者なら
他にもいくらでもいる。

だが彼には他の者にはない輝きが確かにあった。お世辞にも屈強とはいえない
身体から発される気迫や何者にも屈しないといわんばかりの意志の強さをうかがわせる
瞳が、たまらなく男の征服欲をそそった。黒衣の裾から見え隠れする、荒削りと
未成熟が同居した微妙なラインがアリを誘っていた。

彼は望めば何でも手に入れられる身分だ。だから抱いた。夜半の礼拝は臣下にまかせ、
夜明け前まで彼の身体を貪った。はじめは震えて硬かった身体も、アリの荒々しい
愛撫にヒイヒイ言うようになり、しまいには自分から腰を振るまでになった。

しかし相手の身体が蕩けていけばいくほど、アリの心は冷えていった。鈍い失望感が
奥底からじわじわとわきあがってくる。自分が求めていたのはこんなものだったのか。
自分が期待し過ぎていたのか。遠目には二つとない貴石とおもったが、抱いてみれば
ただのつまらない石ころだった。
もう興味も失せてしまったから、礼拝前には追い払ってしまった。

これならアーメドに相手させたほうがよかった――と苦々しく思っていたところに
よりによって一番会いたくない人間の訪問だ。主が死んだのだから、どこかへ消えるなり、
後を追うなりすればいいものを。

だが御命うんぬんと言われれば、会わざるをえない。もっとも単なる口実かもしれないが。
故ザイードの臣下はアリの不機嫌にも全く動じずに、恭しく一礼した。

「王子には今朝もご機嫌うるわしく――」
「やめろ。俺が機嫌がいいように見えるか。用は何だ」

直江は顔を上げた。一見温厚そうな仮面は無表情と同じだ。その証拠に、薄い色の瞳は
アリの表情を油断なく観察している。

「わが君を弑し奉った刺客がこちらに来ていないかと」
「来ていたらとっくに殺っている」
「もしかしたらお気づきでないかもしれないでしょう」

にべもなく言い放つアリに、直江は不可解な微笑を投げかけた。あるいは嘲笑だったかも
しれない。アリは内心の読めない弟の臣下を、ことのほか苦手としていた。

「私はその刺客の顔を知っています。彼は英国産のサソリです。雇った人間は言わずもがな
でしょうが…次に狙われるのは間違いなく、反英派のあなたでしょう」

ふん、とアリは鼻を鳴らした。確かに中東の至るところに支配者然と首を突っ込んでくる
英国やアメリカはアリにとって目の前の男同様、目障り以外の何物でもなかった。

「わざわざ忠告しに来たというわけか」
「いいえ」

アリの言葉をあっさりと否定し、直江は口端をつりあげた。

「あれは私の獲物です。たとえ死体になっても、捕えたら私に引き渡してくださいますよう。」

 

冷徹な鳶色の瞳の奥に炎を見たとおもったのは――おそらく気のせいだろう。

「ところで」

完全に元の無表情に戻ってから、直江は言葉を継いだ。

「先日催されたレースはどうでしたか」

脈絡のない話題に、アリは怪訝そうに顔を顰めた。主が健在の時でもレースなど一度も
見に来たためしのない男である。

「なんでもお気に召した者がいたようですね。夕食に二晩も招いたとか」

アリは内心ちっと舌打ちした。ここに来るまでに下々の者に聞きこんだにちがいない。
この顔で巧みな話術を用いればそれこそ朝飯前だろう。だが探られる方としては
当然、面白くなかった。今朝の苦い失望が蘇ってくる。

「ああ。だがとんだはずれ籤だった。もっとも実戦には役立つかもしれないが…あの瞳に
ひかれたんだがな 」

直江の表情がぴくりと動いた。

「その者と…寝たのですか?」

この男らしくない問いだった。だが自分の思いに沈みこんでいるアリはさして不審にも
おもわなかった。

「昨夜、ここに呼んだ。だがまるで味気なかった」

やはり女の方がいいな、とぼやくのを聞きながら、直江はなにやら考えこんでいる。

「その者に、会わせてもらえませんか」
「別にかまわないが・・・城内のどこかにいるだろう。なんならおまえにやってもかまわんぞ」

 

 

 

朝の陽の光は、からからに乾いた砂の温度を確実に上げていく。
アリが部屋に入ってきたとき、アーメドはこちらに背を向けて窓の外を見ていた――いや、
見えないのだから、ただ光と風を感じていただけかもしれないが 。
名前を呼ぶと、彼はゆっくりとこちらを向いた。色白の、小作りな顔。だが瞼は閉じられた
ままだ。

「会見は終わりましたか」
「ああ。たわいもない用件だ。ここに刺客が紛れこんでいると」

アーメドは秀麗な眉を曇らせた。

「王子。それはたわいもない用件とは申しません」
「どうでもいい。それよりこっちに来い」

あからさまなアリの要求に、アーメドは困った様に笑った。

「まだ日が昇ったばかりですよ」
「関係ない。口直しがしたいのだ」

言いながら、華奢な腕を掴んでぐいっと引き寄せる。急な動作に身体がついていかず、
線の細い顎が軽く仰のいた。うすく開いた唇から除く舌に、アリはごくりと喉を鳴らす。
彼はこんなになまめかしかっただろうか。目元のラインも、やわらかそうな耳朶も、
閉じた瞼さえアリの下半身を刺激している。顔かたちは彫刻のようにととのっているものの、
アーメドはいつも、性的なものとは無縁な、硬質のイメージがあった。彼と寝たことが
ないわけではなかったが、これほどこの身体を欲しいと思ったのは初めてだった。

「・・・昨日の者はお気に召しませんでしたか?」


性急に唇を寄せてくるのを焦らすように指で止めて、アーメドはおかしそうに尋ねる。
だが余裕のないアリの太い腕が邪魔な指を掴んだ。

「ああ。おまえの方がずっといい」
「・・・だから、幻滅するといっただろう」

凛とした声に、アリはふと動きを止めた。
声はどこからでもない、アーメドの唇から発せられた。しかしこの声は――

ゆっくりと、青年の瞼が開かれる。
決して開かれるはずのない瞼の向こうには――
底無し沼のように昏く、だが灼きつくすような強い光をたたえた、
一度見たら決して忘れられない瞳がこちらを見ていた。

その瞳を見た途端、魔法は解かれた。
そこにいたのは、アーメドとは似ても似つかない、あの夢に出てきた死神の顔だった。


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