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「ヒィッ…だ…誰か――ッ!」

 

夕食後。国王の食事を片付けに来た召使は、寝室に一歩足を入れるなり腰を抜かした。
信じられない光景に眼球が飛び出すほど目が見開かれる。これは夢か。そうに違いない。
自分は今きっと、ジンの見せるたちの悪い夢につかまっているんだ。さっさと目を覚まして
お払いをしてもらわねば。そうだ。はやくもとの現実にかえるんだ――

だが悪夢は醒めない。どころか、鼻をつく血臭と、手をついた絨毯から染み出してくる
濡れた感触が、この地獄絵図を現実だと訴えている。
部屋中が血に染まっていた。いつも病床にいる王のためにコーランを読み、祈る年老いた
学者の首は、目をかっと見開いたまま床に転がっている。首のない身体は、少し離れた
ところにうつ伏せに倒れ、両腕はあたかも未だ這って進んでいる最中のように左腕を曲げ
右手を前方に伸ばし、絨毯の毛をわずかに毟り取っていた。首と胴体の間に真紅に染まった
コーランが落ちていた。

無残な骸の後ろには大きな寝台がある。出入りする普段臣下達の視線を遮断する薄布は
半分は天蓋にたくし上げられ、半分はだらしなく垂れ下がっていた。淡い色のついた紗には
べっとりと血がついている。剥き出しになったベッドの上に、かつて国王だった初老の男の、
変わり果てた身体が仰向けに横たわっていた。以前はそれなりに頑健だったにもかかわらず
長い病で枯れ木のようにやせ細った身体は首から下腹までを真一文字に切り裂かれていた。
ぱっくりあいた巨大な切り口からはグロテスクな肉隗が引きずり出されていた。目は眼球が
半ば飛び出たまま、口元は大きくあいて、長い舌がだらしなくはみ出ていた。

毎朝取りかえられている、純白のはずのシーツは最初からその色であったかのように
真紅だった。シーツだけではない。絨毯も壁も、一面がどちらのものともつかぬ血で
染まっていた。たった二人の痩せた老人の一体どこにこんな大量の血が流れていたのか。
いや――それ以前に、死体となったものからはこれほどの血は流れない。
つまり、これほどおびただしい血が部屋全体を染めるまで二人は「生きていた」ことになる…。

複数の足音がこちらに近づいてくる。だが彼は立てなかった。


(ジンだ。きっとジンの仕業だ――)

この男にとっては幸せな狂気が、悲鳴を上げ続けている意識を飲み込もうとしていた――

 

 

 

 

ハマド国王陛下、崩御――!

当然、王宮は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。前々から病床に伏せていたが、
これほど急な話だとは誰もが予想していなかった。ただし、その場に居合わせた者達には
厳重な緘口令が敷かれ、王の死因は病死として、真実は慎重に伏せられた。
だが王付きの学者が「いなくなった」上に目撃した者達の人数を考えれば、噂がひろまる
のは時間の問題のようにおもわれた。

ハマドの死にともなってもう一つ重大な問題があがった。誰が跡を継ぐかである。
なにをおもってか、生前ハマドは皇太子をたてなかった。彼には13人の息子がいるにも
かかわらずだ。
だが少なくとも、誰が葬儀を取り仕切り、政務を代行するかは明らかだった。実際に国政に
関わっていた上の3人の王子のうち、アリとザイードはもういない。長男のアブドゥルは
今までも王宮にいて、病床にいたハマドの代わりに政務を行ってきた。王宮にいる大部分の
人間はアブドゥルがそのまま跡を継ぐものとおもっている。ただし、後宮にいる他の王子の
母親達がそれを黙ってみているとはおもえないが――

アブドゥルはてきぱきと葬儀の段取りを指示する傍ら、前国王と自分の重臣たちを緊急召集
した。表向きには病死にしているものの、一国の国王がああも無残な姿で殺害されてそのまま
というわけにはいかない。晴れて自分が王位を継ぐにしても、犯人をあげてアッラーと――
自分の名のもとに処刑する必要があった。ここでは親を殺されて何もしない者になど、
だれ一人ついていこうとは思わないからだ。

 

 

 

 

 

 

「・・・実は犯人には心あたりがある」

集まった一同の顔を見回し、アブドゥルは重々しい口調で切り出した。

「その者は先にザイードを、その一週間後にアリを、それぞれの城で暗殺している。いずれも
今回同様、もっとも卑劣なやり口だ。奴はイギリス人の刺客だ 」

とたんに周囲がざわついた。

「イギリス人だと!おお、アッラーよ!」
「悪魔の仕業とおもえばやはり奴等か!我らムスリムには想像もつかん所業だ」
「なんて恐ろしい」

 

 

「王子。これはかの国からの宣戦布告。ぜひとも聖戦を」

アブドゥルの最も近くに座っていた男が、 凛とした声で提言する。年は50代前半くらい、
壮健な身体に白髪まじりの髭をたくわえたその男は、故ハマドにもっとも信頼されていた
側近だ。誰もが一目置く彼の発言に、他の者たちも次々に参同する。

「そうだ、あんななまっちろい奴らにのさばられてたまるか!」
「我々は武器をもっている。ミサイルを一つ残らず打ちこんでやれ!」


だがアブドゥルは静かに首を振り、口泡をとばしていきりたつ者達を手を振って黙らせた。

「おまえたちの言うことはもっともだが、これは国際問題だ。さる筋を通してイギリス情報部
に事の真相を探ったところ、確かに敵はかの国の情報部員であることがわかった。だが
今回の事件については、奴個人のまったくの単独行動であり、このような結果になって
しまったのはまことに遺憾であると 」
「王子、あなたはそれを信じるのですか?」

先刻提言した男が王子にたずねる。他の男達に比べれば、この男は幾分冷静に見える。
アブドゥルは薄く笑った。

「真偽は奴を捕まえてからじっくりと聞けばよい。とにかくイギリス側からその刺客の処分の
了承 は得ている。生きて捕まえれば「尋問」の上、イスラム法にのっとって処刑する」

彼の鷹のような両眼が鋭く光る。その場にいる全員が表情をひきしめた。

 

「だが相手は悪魔だ。油断するな。逃げるようなら必ず殺せ」


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