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アッラーは偉大なり
アッラーは偉大なり
我は宣す、アッラーの他に神はなし――
静まり返った夜半の城内にアザーンが響きわたる。
日中平均40℃まで上がる気温は夜になると一気に冷え込む。昼間とはうってかわって
凍りつくような寒さだ。
人気のなくなった廊下を高耶はそれでも慎重に進んでいく。舞踊団はもうとっくに
帰り着いているころだ。彼らが帰る前に、高耶と似たような背格好の者を捕まえて
王子の部屋を聞き出した。薬を嗅がせて催眠暗示をかけ、服を交換して団の者と
一緒に車に乗って帰ってもらった。
いざ栄えの道へおもむけ
いざ栄えの道へおもむけ
アッラーは偉大なり――
もうすぐ礼拝が終わる。
王子の部屋は最上階の一番奥にあった。王子は礼拝をとり仕切るべくモスクに
行っているはずだが、さすがにここの部屋の見張りはなくならない。扉の門前で二人、
その場で礼拝を行っていた。
ならばと高耶は階段を伝い、屋上に出た。通常はここにも兵がいるはずだが、先ほどの
者たちは別として、 さすがに城主の頭上で祈りを捧げるまねはしない。誰もいない屋上を
横切り、ある一角に来ると、懐から金属の鉤のついた、黒いワイヤーロープを取り出す。
鉤の部分を排水用の溝に引っ掛けると、下に垂らしたロープを伝ってすぐ下のテラスに
着地する。キーピックに似た金具で窓を開けて進入した。
そこは居間のようだった。おそらく正面の扉の向こうにさっきの見張りがいるのだろう。
広い部屋に置かれた調度品は、イギリス滞在の年月が長かった為か、ヨーロッパ風の
ものが多かった。西洋式のソファやテーブル、ランプや置き時計などは、その部屋にある、
価値はあるものだろうが決して華美ではないアラビア風の調度品との調和を決して
壊すことはなかった。
左手のドアを開けると、寝室があった。香が焚かれているのか、ほのかによい香りがする。
奥に大きな天蓋つきの寝台がある。鮮やかな色の光沢のある厚い布はたくし上げられ、
内側の何枚もの薄布が寝所にかかっている。室内は暗く、潜んで待つにはうってつけだ。
高耶は首を傾げた。ここが王子の部屋には違いないだろう。王宮に比べてや質素だが、
王族に相応しい格は保っている。だが先刻の余興の席でザイードを見たときと同じ
違和感をこの部屋で感じていた。もちろん調度のほとんどは王族代々で使っている物で、
新しく入れたものにしても周りのものが見繕っているのだろうから、はっきりとはいえない。
ただ漠然と、あの居間やこの寝室の雰囲気が、広間で見た丸顔で小太りの王子に
そぐわない気がするのだ。
(今夜はやめたほうがいいのかもしれない)
正体のわからない、漠然とした不安を感じていた。こういう時の勘は大事だった。
それで何度も命拾いしたことがある。絶好のチャンスではあるが、やはりもうすこし
身辺を洗い直してから実行した方がよさそうだ。
だがそう思ってひきかえそうとした、その時。隣で廊下に通じる扉が開く音がした。
礼拝が終わって帰ってきたらしい。高耶は片隅の物陰で注意深く気配を消した。
二人の足音が部屋に入ってきた。一人はザイード王子だろう。もう一人は――あの
側近か?白の頭布の奥から自分を見ていた、薄い色の瞳を思い出して、高耶は
身震いした。
冷たい、何もかも見透かすような目だった。それでいて高耶に注がれていた
視線は執拗だった。笛を吹いている時も、舞を舞っているときも、肌を焦がすような凝視を
ずっと感じていた。23年間生きてきて、自分をそんな風に見る人間は一人もいなかった。
そして人に見られてあれだけ心臓がドクドクと早鐘を打つことも。正体のわからない
あの男の視線に、高耶は組織に入ってから初めて、不安と恐怖を感じていた。
居間の二人はしばらくぼそぼそと話した後で、一人だけ出ていったようだった。しばらくの
静寂の後、足音がこちらに向かい――ドアが開いた。
高耶は思考を空にして気配を無くすことに集中した。師さえも欺いた高耶の隠形術は、
すぐ後ろに近づいてもたいていの人間はまず気づかない。
衣擦れの音がして、脱いだ服を寝台の上に脱ぎ捨てる、乾いた音が続く。
寝静まるまでこの場を動けない――そう思って息を殺し続けていた、その時。
「いいかげんに、出てきたらどうですか」
心臓が止まった。この声は――
(ザイードじゃない…!)
部屋を間違えたのか!?混乱する高耶の心にさらに追い打ちをかけるように、男の声が
続く。
「出てこないならこちらから行く。それとも人を呼んで欲しい?」
高耶は観念した。ほの昏いランプの灯りに照らし出された男は、あの余興の間高耶を
じっと見つめていた側近だった。抜き身の長剣を手にした男は 闇から突如人が現れても
さして驚いた風はなく、高耶を見て薄く笑った。
「せっかく寝室で待っていてくださったのに、あいにく王子は後宮でご多忙なのでね。
私でよければ、よろこんでお相手しますよ」
高耶は唇を引き結ぶ。剣を持っていない、向かって右側を狙って短剣を繰り出す。
かわしざま閃く白刃を間一髪で避ける。長剣と短剣では、言うまでもなく短剣の方が
不利だ。まともに刃を交えるのを避けて流し、小回りをきかせて隙を狙う。
(こいつ、強い…!)
本来なら、暗殺は一撃で決着をつけなければならない。長引けば長引くほど不利になる。
だが今まで高耶をここまで手こずらせた相手はいなかった。男は敏捷に、容赦なく長剣を
繰り出してくる。長引きそうな戦いに、高耶の額に油汗が滲んだ。
一瞬、男の視界から刺客の姿がふっと消えた。
動揺する間もなかった。剣を握ってない方の腕を背後に伸ばしたのは、勘とも言えない、
当てずっぽうに近かった。掴んだそれを夢中で引き寄せた。
ダンッ!
ものすごい音がして、同時に隣の部屋にばたばたと人が入ってくる音がする。
「どうかなされましたか!?」
廊下で見張っていた者たちだろう、叫びながら寝室のドアを開けようとするのを、男は
鋭く遮った。
「何でもない!ちょっと物を落としただけだ。いいからさがっていろ!」
有無を言わせぬ男の口調に、ドアのすぐ外にいた者たちは、再び持ち場にもどっていく。
廊下に通じるドアがバタンと閉まる音を聞いてかるく吐息する。そして己の体の下に
組み敷いた獲物に視線を移した。
「危ないところでした。まさか両利きとはね…」
なぜあの時咄嗟に素手の方を伸ばしたのかわからない。もし剣をもっている右手を
振るっていたら、自分は今頃血溜りのなかで息絶えていただろう。最後の瞬間、
目に止まらぬ動きで背後に回った高耶は、左手で男の頚動脈をかき切ろうとしたのだ。
捕らえられた獣は、2本の剣を首の真横に突き立てられ、ちょど首の真上で交差する
ようにして文字通り縫い止められていた。頭布ははずれ、艶のある黒髪が絨毯に
こぼれている。独特の強い光を放つ黒い瞳が、屈辱と怒りを込めて男を睨みつけていた。
その瞳の力に惹きこまれるように、若い刺客の顎に手をかける。
「いい瞳ですね…美しく誇り高い――男を誘う瞳だ」
「なっ…!」
心外なことを言われてかっとする高耶に王子の側近は冷たく微笑んだ。
「またお会いできてうれしいですよ。マリブ――いや、アーサー・ブラッド少尉」
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