Outfox

 


 出足は最悪だった。
日中四十度を超える、地獄の釜のような暑さに加えて、この時期一滴も雨が降らないために
相当に埃っぽい場所に赴かねばならなかったのはまだいい。
指令にあった相手と会うために人混みにもまれ、スリだか痴漢だかわからない奴らに身体中を
撫でまわされる不愉快さも、任務のためとおもえば我慢できる。
だが当の相手が死んでしまっては元も子もないではないか。

 今回の高耶の任務は、CIA局員からマイクロフィルムを受け取り、イギリスへ持ち帰ること――
それには東側の貴重な情報を納められているという。イギリス情報部はそれをある情報と引き換えに
CIAから買ったのだ。

ごく簡単な仕事のはずだった。KGBの追っ手に狙われるかもしれないが、要は手元にあるフィルムを
守ればよかった――はずだった。
しかしフィルムの行方はおろか、どこの組織の人間が持ち去ったかすらわからないのでは話にならない。

CIAの男が死んでいた状況も不可解だった。
男から少し離れたところに倒れていた3人は明らかにKGBの者たちと思われた。
いずれも額に一発づつ、確実に打ち抜かれていた。やったのはCIAの男か、それとも第三者か。
いずれにしろ彼らの身体からはマイクロフィルムとおぼしきものは何も出てこなかった。

 聞き込みをすることはリスクを伴うが、まさか手ぶらでイギリスに帰るわけにはいかない。
物盗りにあった観光客を装って、彼らと接触のあった人間を探ることにした。


 

 慎重に行動していたはずだが、やはり目をつけられたらしい。
あくまで「どこにでもいる観光客」を装いながら、しだいに数を増していく監視の影にぴりぴりと神経を
張りつめていた高耶は、突然ぽんと肩を叩かれた。

『誰を捜してるんです?』

 背後から降ってきたのは深みのある声のアラビア語。どこかで聞き覚えのある声だった。
 まさかの気配にふりかえり――呆然と立ちつくした。

「――!」
「待たせてしまいましたね。さあ、行きましょうか」

 

 

 今、この世で一番会いたくない男がそこに立っていた。
 直江は今度は見事なクイーンズ・イングリッシュでそう言うと、高耶の肩を抱いて人混みを歩き出す。
 旧知の友のように親しげに、しかしその実かなり強引な力で人の波を縫っていく直江についていけずに
高耶が抗議しかける。

「ちょ…ッ」
(シッ)

 直江は肩に回した手を振りほどこうとする高耶を直江は目で制した。

『狙われているのがわからないんですか。彼等は巻添えが出たって撃ちますよ』

 低い声のアラビア語で言い終わる前に銃弾が頬を掠めた。

「来なさい!」

 さすがに悲鳴が上がって皆逃げ出そうと混乱する中、有無を言わせぬ力で高耶の肩をしっかりと抱え、
なりふりかまわず飛んできた銃弾を避けながら直江は近くの路地に飛び込んだ。
左側の壁を背にして迷路のような路地――正確には家と家の隙間だが――を何度も曲がりながら走る。

「直江、離せ!銃が撃てない!」

 こんなにいたのか、と呆れる程の人数に、二人は背中合わせになって応戦する。
お互いの弾丸の補給時も、図らずも完璧な連携で追っ手を確実に減らしていった。
寸分の迷いもない直江のナビゲーションで何とか追っ手をまき、
さびれたモーテルに入ったときにはさすがに二人とも息が切れていた。



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この時代KGBにアラビア語が堪能な人はそうたくさんいないだろう、という設定です;
(特にこのひとたち下っ端だし 笑)西側にしたって同じだとおもいますが。