昼休み中の保健室には、誰もいなかった。
屋上でみんなで弁当を食べ、食休みした後にストレッチをして、阿部は三橋の爪を切るために保健室にやってきた。
保険医が不在だったので、ハサミや消毒液などが置かれたワゴンを適当にあさって爪切りを手に取った。

「オ、オレ、自分で切れる・・・」

おどおどと申し出た三橋を、ひと睨みで黙らせた。
屋上で三橋の爪を見たとき、こんなんでよく今までボールを投げられたなと思った。
特に利き手じゃない方で切っている右のほうがひどい。長さが目に付いた爪だけを切っているのか、長さはばらばらだし、切り口もヤスリすらかけていない風に先が尖っているところがある。しかも、爪の白い部分が妙に内側にきていた。
これってつまり。

「・・・おまえこれ、前に深爪したろ」
「う、え?」
「それに何だよこの切り方は。直線に切るとかありえねー。指の形にそって丸く切んなきゃみっともないだろ」

思わず小言を言いながらも、切り過ぎないように、手の中の爪を慎重に切っていく。
何しろ西浦の大事な投手の手だ。自然と手つきは、自分の爪を切るときよりも丁寧になる。

ぱちん、ぱちん。

阿部が口を閉ざすと、爪を切る音だけが室内に響いた。
爪をよく見るために頭をたれているため、阿部から三橋の表情は見えない。
三橋が今どんな表情をしていて、どんなことを思っているのか知らない。

(うっせー奴、とか思われてるかも)

だけど、例えそう思われたとしても、ここは譲れない。三橋は甲子園に行く鍵を握っている、チームでたったひとりの投手なのだ。それが爪の手入れもおぼつかないようでは、とても放置しておくわけにはいかない。この手は、あの奇跡のようなコントロールを繰り出す、この世に二つとない手なのだ。本来ならばこんな切った端からヒビが入りそうな爪切りではなく――

「ヤスリで削ったほうがいいんだよな」

思わず声に出してしまったらしい。三橋がびくりと身体を震わせた。

「おい動くなよ。危ねぇだろ」
「ご、ごめっ」

阿部はひととおり切り終えた爪を念入りに検分した。

「ヤスリつってもコレについているみたいなちゃちいんじゃなくて、ちゃんとしたやつな。
ふつーの爪きりで切るとさ、簡単にひび割れたり欠けたりすんだよ。
あとマニキュアも塗ったほうがいいぞ。おまえ投手なんだからもうちょっと爪にも気を使え」

ヤスリもマニキュアもそんなに高いもんじゃないし、今日の帰りにでも買いに行こうぜ、と提案すると、三橋はわかっているのかいないのか、ただコクコクと頷いた。
なんとなくホッとして、じゃあ今はとりあえずこれで間に合わせな、と一本一本の爪につめきりについているヤスリで軽く切り口をなめらかにした。指を開放してどうだ?と聞くと、三橋はしばらく指を握ったり開いたりしたあと、どうも釈然としない様子でキョドッた。

「あの、なんか、まだ」

爪の白い部分がいつもより多く残っている気がする、と遠慮がちに申し出た。

「長い?握ったときに違和感あるか?」
「それは、ない、けど」

阿部はもう一度三橋の手を取って、裏返したり、握らせたりして検分した。確かに白い部分は多く残ってはいるが、それは昔の深爪の痕だ。

「これ以上は切れねぇ」

阿部は断言した。三橋の下がり眉が困ったようにまた心もち下がったが、だめなもんはだめだ。

「前に切りすぎた部分が白くなってんだ。いいか、気になっても絶対自分で切るんじゃねーぞ。
伸びたらオレに言え、わかったな?」

今まで他人の爪の世話など焼いたことはないが、三橋に爪切りを持たせるくらいなら、3年間自分がやったほうがマシだ。
5本の指をぎゅっと握って、イヤだっつってもダメだからな、と気迫を込めて、大きな茶色の瞳をまっすぐに見据えてそういえば、三橋はこくこくと頷いた。
爪の白い部分は気になるだろうけど、この手は三年間ちゃんと責任持って手入れするから、がまんしろよ。
三橋の返答に満足した阿部は、ようやく手を離して、

「次、足の爪な」

手の爪が伸びているということは、足の爪も伸びている可能性が高い。
靴下かなんかに引っ掛けてはがれたりしたら大変だ。
えっ、足も?と戸惑う三橋に阿部は有無を言わさず、さっさと靴下脱げ、と同じ手を差し出したのだった。

 

 

 

伸びたら言えとは言ったものの、それ以来、三橋が阿部に爪を切ってほしいと申し出る機会はなかった。

「お、はようっ」
「はよ」

朝練で三橋に会ったら、まずその日の体重を聞く。朝一番に聞かないと三橋は忘れてしまうからだ。
その後左手を差し出すと、三橋はおずおずとマメだらけの右手をのせる。
手の温度で今日の調子をみて、あとマメがつぶれたりしていないか、家で投球練習をしていないかとかを、つぶさに観察する。それはチームで瞑想をするようになってから毎朝するようになった習慣だけれども、最近はそれに加えて、爪の長さもチェックしている。

「マニキュアまた剥げてんな」
「うっ・・・ごめ」
「あやまることじゃねーだろ。昼休みに塗ってやるから一式持って来いよ」

一式とは、最初に阿部が三橋の爪を切った日の夜に、一緒に薬局に行って買った、爪の手入れに必要な道具一式のことだ。透明なマニキュアと除光液、小さな銀色のヤスリとポケットティッシュ。こまごましたものばかりだから、まとめて袋に入れて、カバンに入れておけと言ったら、翌日母親からもらったという紺色化粧ポーチに入れてちゃんと持ってきた。それ以来、爪の手入れをするときには三橋はそのポーチを阿部に渡すことになっている。

阿部の言葉に、三橋はこくこくと頷いた。心なしかさっきより血色もいいし、機嫌も悪くなさそうだ。
よし、じゃあ早く着替えてこい、と離した手でぽんぽんと頭を軽く叩くと、三橋はうひっと変な笑い声を残して、はじかれたようにベンチの方へ走っていった。
それを見送った阿部は再びグラウンド整備に戻ったが、トンボを持つ手のひらには、まだ三橋の手の感触が残っている気がした。
タコだらけの、ごつごつとした、誰よりも努力をしている人間の手。毎日、あの手を見る度に熱い気持ちがこみあげてくる。絶対にこいつを有名にしてやるんだという決意を新たにする。今まで誰に対しても感じたことのないその気持ちをなんと呼ぶのか、阿部はまだ知らない。

 

 

「あれ、今日はやけに速いじゃん」

さっさと弁当箱を片付ける阿部に、水谷が声をかけた。近くで食べている水谷や花井は、まだ半分も食べ終わっていない。

「あーこの後三橋が来っから」

あいつの爪塗ってやるんだ、と説明すると、花井はまた何か言いたげな顔をした。阿部が三橋に何か言っている時などに、花井はよくこういう顔をする。何なんだ一体、と花井をまっすぐ見据えると、彼は一瞬怯んだ顔をしたものの、意を決したように口を開いた。

「おまえさあ・・・ちょっと三橋に構いすぎなんじゃねーの?マニキュアくらい自分でできるだろ?」
「マニキュアと除光液の区別もつかない奴ができるわけねーだろ。塗れたとしても、どうせ乾かないうちにあちこちベタベタ触りまくって、そこいらじゅうマニキュアまみれにした挙句に、拭いてもとれなくて泣くのがオチだ」

阿部の即答に、花井はうーん確かになあ、と唸った。
別に好きで構っているわけじゃない。三橋があまりに自己管理のおぼつかない奴だからつい口と手が出るだけだ。
たとえば今だって。

「・・・遅ぇ」

マニキュアが乾くのには時間がかかる。早く塗り始めないと、昼休みが終わるまでに乾かない。何度かやっているから三橋もそれはわかっているだろうに、まだ食ってんのか。いっそこっちに弁当を持ってこさせればよかった。

「ちょっと行って来る」

田島あたりに捕まっているのかもしれない。出口に向かう阿部の背中に、あんま怒んなよー、とのんびりした声がかけられた。

 

 

9組に行くと、田島と泉が弁当を広げているものの、肝心の三橋の姿はなかった。

「三橋は?」

聞くと、泉がなぜか気まずそうな顔をした。

「おい」
「・・・たぶん、一人で爪の手入れをしに行った」

ハァ?!と聞き返す阿部に、泉は目をそらしながらも、ぼそぼそと事の顛末を語った。

「お前があんまりあいつの世話焼きすぎるからさ、うぜーって思わねーのって、自分のことくらい自分でやるってはっきり言えって言ったんだ。そしたら真っ青な顔して、自分でやるからって言って、出て行った」

なんか誤解したかも。ごめん。

泉の最後の言葉は、阿部には聞こえていなかった。すでに教室を出ていたからだ。
階段を駆け上がって屋上に行ったが、楽しそうに弁当を広げているいくつかのグループがいるだけで、三橋はいなかった。
再び階段を駆け下りて玄関を出て、今度は部室へと走る。
泉の言葉を聞いて、9組で自分で塗ろうとするならともかく、一人になろうとしているのが気になる。
また構いすぎだ、うぜーって思われるかもしれないけど、あんな奴だから放っておけねーだろ。

特別棟を抜けてようやく部室が見えてきたとき、ドアの入り口に三橋が座り込んでいた。
部室の鍵は花井が持っているから、中に入れなかったらしい。
小さくなって座っている三橋の周りには化粧ポーチと、その中身が転々と置かれている。
そして三橋が今まさに爪に当てようとしている銀色の物体を目にした瞬間、阿部の顔色が変わった。

「三橋ッ!」

制止の意思を込めて叫ぶと、三橋は文字通り飛び上がって、銀色の物体――ヤスリを取り落とした。
とりあえず危険物を取り上げるという目的は達した阿部は、最後の力をふりしぼって三橋に駆け寄ると、

「何やってんだバカ!」

力いっぱい怒鳴った。

「ごっ・・・ごめっ・・・」

怯えきった様子で謝る三橋の両手をつかんで引き寄せた。
どちらの手もおそろしく冷たく、ぶるぶると震えていた。
左手は文字通りマニキュアまみれだった。はがれかけたマニキュアをとらないで上から重ね塗りしたのか、爪の表面はどの指もガタガタだった。右手の方はまだ手つかずだった。どうやら、利き手で左手の爪を塗ろうとして失敗し、ティッシュで拭っても取れなくて(周りには丸めたティッシュが散乱していた)、ヤスリで削ろうとしていたらしい。
阿部は両手の爪を検分して、どれも傷めていないことがわかると、安堵のため息をついた。
それから、まだおろおろしている三橋の正面に胡坐を書いて座り込むと、そばに転がっていた除光液をティッシュにしみこませて、てきぱきとマニキュアを落としにかかった。

爪をよく見るためにうつむいているから、今三橋がどんな表情をしているのかわからない。
こんなに冷たい手をして、ぶるぶると震えて、それでも阿部のされるがままに手をあずけている三橋が、何を考えているのかわからない。

阿部は無言のまま、すべての爪のマニキュアをふき取り、改めてマニキュアをつけた小筆を右の親指の爪に近づけたけれど、三橋の指の震えが止まらないのを見て、小筆を瓶に戻した。

「なあ」

震える親指が、握りこまれた。自分の手もおそらく冷たくなってしまっている。どちらの手が冷たくて、どちらの手が震えているのか、もはやわからない。

「オレがこういうことするの、嫌か?」

握りこんだ指先に目を落としながら、小さく声は、自分でも驚くほど頼りなかった。
三橋からの返事はなかった。だけど、顔を上げて三橋の顔を確かめる勇気もなかった。自分で問いかけたくせに、答えを聞くのが怖くて、阿部は返事を待たずに言葉を継いだ。

「オレのことウルセーっておもってるかもしれねーけど、お前はうちのチームのたったひとりの投手だしさ。怪我したり体調崩したりされると困るから、口を出すのはたぶんやめらんねぇ。さっきだってヤスリで爪の表面削ろうとしてるしさ。だから、オレが嫌なら爪の手入れは泉か坂口にでも頼んで――」
「い、やじゃない、よ!」

突然、大きな声で言葉をさえぎられて、阿部は先刻マニキュアを塗ろうとした親指を握ったまま、固まった。
いつも小さな、聞き取りづらい話し方をする奴とおもっているだけに、たまに大きな声で、しかも話の腰を折られるとかなりビビる。
驚いた拍子に、思わず顔を上げてしまった。
三橋自身も自分の出した声に驚いた顔をしていたが、すぐに言葉を継いだ。

「オ レ、阿部君、に、感謝、してる!」

はっきりと言われた、思わぬ言葉に、阿部の目が見開かれる。

「い、いつもオレのこと、怒ってくれて、オレのこと、心配、してくれるの、あ、阿部君が、い、いちばん、だ」

だから、どんなに怖くても、怒られても、オレは阿部君が、いいんだ。
普段、俯いて目もあわせない三橋が、今は曇りのない目でまっすぐに阿部を見つめて、一生懸命つたない言葉で自分の気持ちを伝えようとしている。
口うるさい、うぜー奴って思われていると思ってた。いろいろ言ったり構ったりするのは、三橋の言うとおり心配だからだけど、いつも怯えて言いなりになっているようなこいつには絶対伝わっていないって思ってた。
別にそれでもいい、友達になる必要はないし、こいつに好かれる必要もないんだからって、そう割り切っていたはずだった。
それなのに、三橋の言葉に感動して、情けなくも泣いてしまいそうな自分がいる。

「・・・じゃあ何で今日オレんところに来なかったんだよ」

涙をこらえるために、あえて口に出したその言葉は、我ながら拗ねているようでみっともなかった。
う、と三橋は返事につまった。
ほとんど使ってしまったポケットティッシュ、半分以上中身が減ってしまった大小二つの瓶、無造作に放られた銀色のヤスリ。
最初から阿部のところへ来ていれば、今頃塗りなおした爪も乾いていたころだろうに。

「オ、オレ、阿部君に・・・いつも、迷惑、だから」

申し訳なさそうにうつむいた口から出た言葉は、またいつもの小さな、聞き取りづらい口調に戻っていた。
阿部に世話を焼かれるのが嫌だったからではなく、ただ迷惑をかけたくなかったためらしい。

「バーカ」

阿部はうつむく三橋に追い討ちをかけ、それから握っていた親指をぎゅっと握った。
どちらの指も、もういつもの熱を取り戻していた。

「迷惑なんて思ってねーよ。オレがやりたくてやってんだから、お前が嫌じゃないんならオレにやらせろよ」

ていうか、お前はもう道具にさわるな。特にヤスリには金輪際手を触れるなよ。
ヤスリだって使い方を間違えれば怪我をする。
ぎゅううと親指を握る手に力をこめて至近距離で睨むと、三橋は気圧されたようにコクコクと頷いた。

指の震えがおさまったのを見て、よしじゃあマニキュア塗るか、と阿部がマニキュアの瓶から小筆を取ったちょうどその時。
無情にも昼休み終了のチャイムが鳴った。

 

 

「ね〜・・・何なのあのひとたち〜」
「・・・放っておいてやれ」

放課後の部活前の部室で、ひそひそと囁きかける部員たちに、花井は黙々と着替えながら何度目かの同じ返答をした。
部室の一角から妙な空気が漂っている。発生源は奥でマニキュアを片や塗って、片や塗ってもらっている二人だ。
床に内股座りをして塗ってもらっている三橋は、口元をだらしなく緩ませ、きらきらと輝く目は綺麗に塗ってもらっている自分の爪を――ではなく、明らかに、真剣な顔をして爪を塗っている阿部の顔を頬を染めて見つめている。
一方、大事な投手の爪をいかに美しく塗るかに心を砕いている阿部はといえば、爪を見つめる目こそありえないほど真剣だったが、いつもは不機嫌そうに引き結ばれている口の端が、今は柔らかく緩んでいた。
もし片方が女の子だったなら、この光景はそのまんま「仲睦まじいカップル」の図だったろう。しかし今ここで、例えるならピンク色のオーラを発しているのは自分と同じ野球部のユニフォームを着たヤロー二人である。

「・・・よし、できた。乾くまでそのまま指、広げとけよ」

ぎりぎり部活には間に合っから、と阿部はマニキュアを塗り終わったばかりの手をとると、不意に顔を近づけ、ふうっと息を吹きかけた。
運悪くその光景を目の当たりにしてしまった者たちは、見てはいけないものをみてしまったかのように、皆なぜか赤くなって顔をそむけた。

「なんかあの二人って・・・」
「言うな。さっさと着替えてここを出るんだ」

ようやく着替えを終えた花井は自分に言い聞かせるようにそういうと、逃げ出すように部室を後にした。
バッテリーの仲がいいのはいいことだ。いいことだと思う。いいことだと思いたい。
花井の苦労は、まだ始まったばかりだった。

 

 

 

「あーんして」 「みーつけた」

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