「今日はお母さん出張でいないから。帰ったら戸締りちゃんとしてね。夕ご飯は作っておくからね」 共働きの両親が二人とも家にいないことは、別段珍しいことではなかった。夜一人で留守番をするのを寂しく思わないわけではないが、両親がいてもいなくても、することはほとん変わらない。いつも通りに学校に行って、野球をして帰ってきて、夕ごはんを温めて食べたあと、庭でちょっとだけ投げて、風呂に入って寝る。
そして実際、三橋はその日の大部分を、何事もなく過ごした。朝体重をはかるのを忘れなかったので阿部に怒られなかったし、投球の調子もよかったのでほめられた。授業も今日はどれもたまたま当てられることもテストもなく、午後の部活も楽しく過ごせた。帰りの着替えの時に、皆が待っているのになかなかシャツのボタンが留められなくて、それを見かねた阿部が手伝うというひとコマはあったが、それもまあ、いつものことだった。 「・・・・・・・ない・・・」 かれこれ15分以上もの間、三橋は自分の家のドアの前に座り込んでいた。 「どうしよう・・・」 どうやら身につけている服のポケットや、広げている荷物の中にはないらしいと、ようやく結論を出して、三橋は呆然とした。 ここにないならば、学校で落とした可能性が高い。 『ハイハーイ!』 突然やたら元気な声が応答して、三橋は仰天した。おもわずディスプレイを見直したが、通話の相手はちゃんと「花井梓」になっている。 『もしも〜し!三橋どうしたー?』 なぜ花井の携帯にかけて田島が出るのかはさっぱりわからなかったが、田島が何かあったん?と気さくに聞いてきたので、三橋はわりとすんなりと事情を説明することができた。 『家に入れないんか〜オレが花井んちに来てなきゃ、うちに泊めてやるのにな〜』 電話の向こうから、お前何勝手に人の電話に出てんだよっ、と怒る花井の声がした。田島はそれに、いいじゃん三橋だし〜、と返してから、 『でも部室の鍵なら阿部が持ってるぞ』 三橋にとっては衝撃の事実を口にした。 『アイツいつも朝練一番乗りじゃん?花井はキャプテンのくせに遅いからさー、阿部が持っていることにしたんだってさ』 またもや電話の向こうから、うっせーな、遠いんだからしょうがないだろ!と怒る花井の声が聞こえたけれど、三橋の耳にはほとんど入っていなかった。その後何と言って電話を切ったかもろくに覚えていなかった。 「どどどどどうしよう・・・・」 どうしようもない。阿部に電話して部室の鍵を貸してもらうしかない。 (でも、もし「お前なんかに家を教えるのは嫌だ」って言われたら) 出て欲しいけれど出ないで欲しい、という矛盾した期待を裏切って、今度は2コール待たずに繋がった。 『はい』 いささかうわずった声で名乗ると、奇妙な沈黙があった。 『いや、わかるけど。何?』 受話器越しに聞く阿部の声は、いつも聞く声より低いような気がする。オレなんかが電話してきたから機嫌が悪いのかな、とびくつきながらも、なんとか勇気を振り絞った。 「あ・・・あの、あの・・・阿部君の・・・か・・・」 阿部の語気に気おされた三橋がおもわず「ごごご、ごめ・・・っ」と謝りだして阿部はますます訳がわからなくなり――話が本題に戻るまでにたっぷり5分を要した。 『なんだ、鍵って部室の鍵か。忘れ物でもしたのか?』 正論で諭され、三橋は白状せざるを得なくなった。 「・・・・かぎ・・・」 さすがに今度は、長い沈黙が落ちた。 『・・・・おまえんちの鍵?』 つまり「忘れた」ではなく「失くした」のだと、ここに至ってようやく阿部は三橋の現状を把握した。 またもや畳み掛けるように言われて、三橋は受話器をもったまま思わずコクコクと頷いた。 「オレはこっち側探すからお前はそっち側な」 会って怒るでもなく指示を出し、自分用にも持参してきた懐中電灯を片手に歩き出そうとする阿部を、三橋はあわてて呼び止めた。 「あ?」 いくら何でもそこまで迷惑はかけられない。ぶるぶる震えながら懐中電灯を差し出す三橋に、阿部はため息をついた。 「どこにあるかわかんねーんだろ?もし見つかんなかったらお前今日どうする気だよ。まさか部室に泊まる気じゃねぇよな?」 ぎくり、と三橋の肩がこわばったのを見て、阿部のこめかみがぴくりと動いた。 (どうしてこいつはこう・・・・!) だが悄然と肩を落としている三橋を前に、怒鳴りつけたい衝動を何とかこらえた。 「とにかく、心当たりを一通り探すぞ。それでなかったら今日は適当に切り上げる。いいな!」 質問ではなく断定の口調に、三橋はもはやこくこくと頷くしかなかった。
「ねぇなー」 阿部の提案ならぬ指示通りに、学校までの道のりを端と端に別れて探し、当然閉まっていた校門を迂回して部室にたどりついたものの、あてがはずれて見つからず(この時三橋が受けたショックははかりしれないものだった)、校舎には入れなかったので野球部のグラウンドに行き、ベンチ周辺も探してみたが、やはり鍵は見つからなかった。 「ごっ・・・ごっ・・・ごめっ・・・」 こんな夜遅くに、一緒に探してくれている阿部に対する申し訳なさと、鍵が見つからないショックで、三橋はベンチの前に座りこんだまま、ぼろぼろと大粒の涙を流している。 (オレのことなんかでこんなに迷惑かけて・・・オレ、きっと阿部君に嫌われた) そう思えばますます悲しくなって、涙が止まらなくなる。泣き止まないと、ますます嫌われる。わかっているのに、止まらない。 「まあ、ねーもんは仕方ねーよ」 ぶっきらぼうだけれど穏やかな口調に、三橋の涙がとまる。 「こんだけ探してなかったんだしさ。万一拾われたっておまえんちの鍵なんてわかんねーだろーし、明日おばさんに謝って、心配なら錠ごと変えてもらえばいいじゃん」 もしかしなくても、なぐさめて、くれているのだろうか。三橋は呆然と、ベンチに腰掛ける阿部の横顔を見上げた。 「お・・・おこって・・・ない、の?」 うわ、もうこんな時間かよ、と携帯で時間を確かめてぼやきながら、グラウンドを後にする阿部の背中を、三橋も涙をぬぐって追った。 (阿部君は、優しい) 毎日いっぱい怒らせて、イライラさせているのに。 (オレは、阿部君のこと、大事にしよう。いっぱいいっぱい、大事にするんだ) 「・・・おい、どこ行くんだよ」 三橋の決意は、ドスのきいた声にさえぎられた。しまった。胸がいっぱいになりすぎてお礼を言うのを忘れていた。 「ぶ、しつっ・・・あのっ、阿部君、今日はほ、本当に、ありがとうっ」 自転車にもたれ掛かったまま、阿部ははー、と何度目かのため息をついた。 「部室はダメだ。今夜はオレの家に泊まれ」 ぎょっとしたように飛び上がる三橋の過剰な反応に、阿部の目が据わった。 「・・・オレの家じゃ嫌だってのか」 低い声に、三橋はめっそうもない、と必死に首を振った。 「親には言ってきた。メシは残りもんだけどいーよな?」 首を振ることは許さない、という口調だった。
そうして夜遅くにころがりこんできた三橋を、阿部家は暖かく迎え入れてくれた。 (ここが阿部君の部屋) なんだか夢みたいだ。本当なら泊まりに来るような仲じゃない自分が、こうして彼のテリトリーに入ることを許されていることが、信じられない。 「三橋ー」 自分の部屋なのにノックして入ってきた阿部が、脱衣所に脱いで忘れてきた三橋のズボンとシャツを持って部屋に入ってきた。 「ユニフォームとか洗濯物、今洗濯してるから。乾燥できるから朝までには何とかなるだろ。それからズボンかけておくぞ」 あんなところに脱ぎ捨てたらシワになるだろーと文句をいいながらもハンガーにかけようと、ズボンの裾をあわせて逆さまにした、その時。 チャリーン 銀色のかけらが、ズボンにぶらさがっていたベルトのバックルに当たって乾いた金属音を響かせ、カーペットの上に転がった。 「お、まえ、なあ〜〜〜〜!!」 その直後――真夜中近くの阿部家に、怒声が響き渡ったのだった。
その翌日から、三橋の家の鍵には長いチェーンをつけられ、常にカバンに繋げておくよう、「厳命」されたという。
|