「今日はお母さん出張でいないから。帰ったら戸締りちゃんとしてね。夕ご飯は作っておくからね」

共働きの両親が二人とも家にいないことは、別段珍しいことではなかった。夜一人で留守番をするのを寂しく思わないわけではないが、両親がいてもいなくても、することはほとん変わらない。いつも通りに学校に行って、野球をして帰ってきて、夕ごはんを温めて食べたあと、庭でちょっとだけ投げて、風呂に入って寝る。
だからこの日の朝、母親にそう告げられた時にも、特に何が起こるともおもわなかったのである。

 

そして実際、三橋はその日の大部分を、何事もなく過ごした。朝体重をはかるのを忘れなかったので阿部に怒られなかったし、投球の調子もよかったのでほめられた。授業も今日はどれもたまたま当てられることもテストもなく、午後の部活も楽しく過ごせた。帰りの着替えの時に、皆が待っているのになかなかシャツのボタンが留められなくて、それを見かねた阿部が手伝うというひとコマはあったが、それもまあ、いつものことだった。
その後は皆でコンビニに寄って、分かれ道でわかれて、一人家路についた。そこまでは、確かにいつも通りだった。

「・・・・・・・ない・・・」

かれこれ15分以上もの間、三橋は自分の家のドアの前に座り込んでいた。
玄関前には空っぽのカバンと中身をばらまいた筆記用具、同じく中身をばらまいた化粧ポーチと、同じく中身を全部ばらまいたスポーツバッグが、これからフリーマーケットでも始めるかのように広げられていた。ポケットも、財布の中も、心当たりのある場所は何度も探したが、今一番必要なもの――この家の鍵が、見当たらないのだ。

「どうしよう・・・」

どうやら身につけている服のポケットや、広げている荷物の中にはないらしいと、ようやく結論を出して、三橋は呆然とした。
鍵がないと、当然家の中に入ることができない。どこか開いている窓から入れないかと、家の周りをぐるっと一周してみたものの、生憎そこまで無用心な母親ではなかった。木を伝って二階から侵入することも考えたが、二階の窓が閉まっていたのでは結果は同じだった。諦め悪く玄関先から門までの道に落ちていないか、携帯で地面を照らして探したけれどやっぱりなくて。落胆しながらしまおうとした携帯を、ふと見つめなおした。

ここにないならば、学校で落とした可能性が高い。
鍵はいつもズボンのポケットに入れている。一番落とす可能性が高いのは、一日に何度も着替える場所――部室だ。
当然、部室には鍵がかかっている。鍵を持っているのはたぶん、部長の花井だろう。
花井の家は三橋の家とは反対方向で、その上遠いようなイメージがあった。だがこのまま家の前で野宿するくらいなら、遠くても鍵を借りに行ったほうがいい。
花井の携帯番号を呼び出し、意を決して通話ボタンを押した。
どきどきしながら長く続くコール音を聞いた。繋がらない・・・と落胆しかけた、その時。

『ハイハーイ!』

突然やたら元気な声が応答して、三橋は仰天した。おもわずディスプレイを見直したが、通話の相手はちゃんと「花井梓」になっている。

『もしも〜し!三橋どうしたー?』
「たじ、まくん???」

なぜ花井の携帯にかけて田島が出るのかはさっぱりわからなかったが、田島が何かあったん?と気さくに聞いてきたので、三橋はわりとすんなりと事情を説明することができた。

『家に入れないんか〜オレが花井んちに来てなきゃ、うちに泊めてやるのにな〜』

電話の向こうから、お前何勝手に人の電話に出てんだよっ、と怒る花井の声がした。田島はそれに、いいじゃん三橋だし〜、と返してから、

『でも部室の鍵なら阿部が持ってるぞ』

三橋にとっては衝撃の事実を口にした。

『アイツいつも朝練一番乗りじゃん?花井はキャプテンのくせに遅いからさー、阿部が持っていることにしたんだってさ』

またもや電話の向こうから、うっせーな、遠いんだからしょうがないだろ!と怒る花井の声が聞こえたけれど、三橋の耳にはほとんど入っていなかった。その後何と言って電話を切ったかもろくに覚えていなかった。

「どどどどどうしよう・・・・」

どうしようもない。阿部に電話して部室の鍵を貸してもらうしかない。
携帯に登録はしてあるものの、今まで阿部に電話をかけたことは一度もなかった。
最近では阿部から何かと話しかけてくることが多いので、合宿前に比べれば随分会話は増えたけれど、それでも自分から声をかけるのはとても勇気がいった。
それに、彼が何かと自分を気にかけてくれるのは、捕手としての責任感からであって、家に帰ってまで自分なんかとは話したくないはずだ、と三橋は思っている。
しかも今回の用件は部活のことではなく、三橋個人の問題である。今電話をかけていいのかわからない相手に電話をかけるのは、よけいにためらわれた。
しかしこのままでは、三橋は家に入れない。
用件を言って、家の場所を聞いて、玄関先に鍵を持ってきてもらう、だけなら、それほど迷惑をかけない、かもしれない。

(でも、もし「お前なんかに家を教えるのは嫌だ」って言われたら)

様々な悪い可能性を思い描く度に三橋の勇気は萎えかけ、とうとうディスプレイに阿部の番号を表示させ、固まりそうになる指をなんとか動かして通話ボタンを押すまでに、かなりの時間を要したのだった。

出て欲しいけれど出ないで欲しい、という矛盾した期待を裏切って、今度は2コール待たずに繋がった。

『はい』
「ああああのっ、三橋、ですっ」

いささかうわずった声で名乗ると、奇妙な沈黙があった。

『いや、わかるけど。何?』

受話器越しに聞く阿部の声は、いつも聞く声より低いような気がする。オレなんかが電話してきたから機嫌が悪いのかな、とびくつきながらも、なんとか勇気を振り絞った。

「あ・・・あの、あの・・・阿部君の・・・か・・・」
『・・・・・・・・』
「か・・・かかか・・・鍵、貸して、くださいっ」
『ハァ!?』

阿部の語気に気おされた三橋がおもわず「ごごご、ごめ・・・っ」と謝りだして阿部はますます訳がわからなくなり――話が本題に戻るまでにたっぷり5分を要した。

『なんだ、鍵って部室の鍵か。忘れ物でもしたのか?』
「う・・・」
『もう時間も遅ぇし、忘れ物なんか明日取りに行けばいいだろ。何忘れたんだよ?』

正論で諭され、三橋は白状せざるを得なくなった。

「・・・・かぎ・・・」
『だから明日にしろって――』
「家の鍵、です・・・」

さすがに今度は、長い沈黙が落ちた。

『・・・・おまえんちの鍵?』
「う、ん」
『家に入れないわけ?おばさんは?』
「今日、オヤ、両方とも、泊まりで、いない」
『何で部室?本当にそこにあんの?』
「う・・・わからな・・・い」

つまり「忘れた」ではなく「失くした」のだと、ここに至ってようやく阿部は三橋の現状を把握した。
いつもどこにしまっている?最後に鍵を出したのは?鍵にキーホルダーか何かはついているか?失くしたと気づいたのはいつどこで?気づいてから今まで探した場所は?
立て続けに繰り出される質問にとにかく必死で答えると、阿部は大して間を置かずに、

「いつも帰りにオレらが別れるところ、わかるか?あそこに荷物全部もって自転車で行って待ってろ。自転車は押して歩いて、道に落ちていないか探しながら来いよ。あ、でも車には気をつけろよ。自転車を道路の内側にしてなるべく端を歩いてこいよ」

またもや畳み掛けるように言われて、三橋は受話器をもったまま思わずコクコクと頷いた。
ばら撒いた荷物をまとめて自転車の前カゴに入れ、阿部に言われたとおりに自転車を押しながら鍵を探したが、それらしいものは見当たらなかった。肩を落としていると、それほど待たずして曲がり角から自転車に乗った阿部が現れた。
部室の鍵を渡しに来てくれたのかとおもいきや、手渡されたのは懐中電灯だった。

「オレはこっち側探すからお前はそっち側な」
「あ・・・あ、のっ・・・」

会って怒るでもなく指示を出し、自分用にも持参してきた懐中電灯を片手に歩き出そうとする阿部を、三橋はあわてて呼び止めた。
まさかとは思うが、一緒に探してくれる気なのだろうか。

「あ?」
「オ、オレッ・・・鍵、借りるだけ、で」

いくら何でもそこまで迷惑はかけられない。ぶるぶる震えながら懐中電灯を差し出す三橋に、阿部はため息をついた。

「どこにあるかわかんねーんだろ?もし見つかんなかったらお前今日どうする気だよ。まさか部室に泊まる気じゃねぇよな?」

ぎくり、と三橋の肩がこわばったのを見て、阿部のこめかみがぴくりと動いた。
部室には古い木製の机と長いすがあるだけで、当然ながら布団や毛布の類は置いていない。
いくら春先とは言え、固い椅子や床の上で何も掛けずに寝れば身体は痛くなるし風邪をひく。

(どうしてこいつはこう・・・・!)

だが悄然と肩を落としている三橋を前に、怒鳴りつけたい衝動を何とかこらえた。

「とにかく、心当たりを一通り探すぞ。それでなかったら今日は適当に切り上げる。いいな!」

質問ではなく断定の口調に、三橋はもはやこくこくと頷くしかなかった。

 

 

 

「ねぇなー」

阿部の提案ならぬ指示通りに、学校までの道のりを端と端に別れて探し、当然閉まっていた校門を迂回して部室にたどりついたものの、あてがはずれて見つからず(この時三橋が受けたショックははかりしれないものだった)、校舎には入れなかったので野球部のグラウンドに行き、ベンチ周辺も探してみたが、やはり鍵は見つからなかった。

「ごっ・・・ごっ・・・ごめっ・・・」

こんな夜遅くに、一緒に探してくれている阿部に対する申し訳なさと、鍵が見つからないショックで、三橋はベンチの前に座りこんだまま、ぼろぼろと大粒の涙を流している。

(オレのことなんかでこんなに迷惑かけて・・・オレ、きっと阿部君に嫌われた)

そう思えばますます悲しくなって、涙が止まらなくなる。泣き止まないと、ますます嫌われる。わかっているのに、止まらない。
だが覚悟していた罵声は、いつまでたっても三橋に浴びせられることはなかった。

「まあ、ねーもんは仕方ねーよ」

ぶっきらぼうだけれど穏やかな口調に、三橋の涙がとまる。

「こんだけ探してなかったんだしさ。万一拾われたっておまえんちの鍵なんてわかんねーだろーし、明日おばさんに謝って、心配なら錠ごと変えてもらえばいいじゃん」

もしかしなくても、なぐさめて、くれているのだろうか。三橋は呆然と、ベンチに腰掛ける阿部の横顔を見上げた。

「お・・・おこって・・・ない、の?」
「何でオレが怒んだよ。どっちかっていうと、怒るのはおばさんだろー?さ、もう帰るぞ」

うわ、もうこんな時間かよ、と携帯で時間を確かめてぼやきながら、グラウンドを後にする阿部の背中を、三橋も涙をぬぐって追った。

(阿部君は、優しい)

毎日いっぱい怒らせて、イライラさせているのに。
いつも気にかけてくれて、サインをくれて、いい投球をすると褒めてくれて。
学校でよくしてくれるだけでも、三橋にとってはすごいことだった。
でもそれはきっと捕手としての責任感からで。
バッテリーではあるけれども、田島とのように仲がいい、という間柄ではない。
ましてや、自分が阿部に好かれているなどと、うぬぼれる気には到底なれなかった。
決して「親しい」とは言えない三橋のために、わざわざ学校まで来て、一緒に鍵を探してくれた。
心細かったところに与えられたやさしさに、三橋また涙があふれそうになった。
迷惑をかけてばかりで、具体的にどうしたらいいのかはわからないけれど、とにかく。

(オレは、阿部君のこと、大事にしよう。いっぱいいっぱい、大事にするんだ)

「・・・おい、どこ行くんだよ」

三橋の決意は、ドスのきいた声にさえぎられた。しまった。胸がいっぱいになりすぎてお礼を言うのを忘れていた。
三橋は自転車ごと阿部に向き直ると、ぴょこんと頭をさげた。

「ぶ、しつっ・・・あのっ、阿部君、今日はほ、本当に、ありがとうっ」
「・・・お前、オレの話聞いてねーな・・・」

自転車にもたれ掛かったまま、阿部ははー、と何度目かのため息をついた。

「部室はダメだ。今夜はオレの家に泊まれ」
「うえっ!?」

ぎょっとしたように飛び上がる三橋の過剰な反応に、阿部の目が据わった。

「・・・オレの家じゃ嫌だってのか」

低い声に、三橋はめっそうもない、と必死に首を振った。

「親には言ってきた。メシは残りもんだけどいーよな?」

首を振ることは許さない、という口調だった。

 

 

そうして夜遅くにころがりこんできた三橋を、阿部家は暖かく迎え入れてくれた。
むしろ「大変だったわねぇ」とねぎらわれながら、遅い夕食のお替りをすすめられ、風呂でようやく部活の汗と埃を洗い流し、阿部に借りたジャージの上下を着て、三橋は今ぼーっと(今夜はお前が使えとあてがわれた)阿部のベッドの上に、枕を抱いて座り込んでいた。

(ここが阿部君の部屋)

なんだか夢みたいだ。本当なら泊まりに来るような仲じゃない自分が、こうして彼のテリトリーに入ることを許されていることが、信じられない。
許されているのは、阿部の優しさからだ。その優しさは、三橋をうれしい気持ちにさせたが、同時に心の奥底から警鐘のようなものが聞こえてくる。
これ以上、彼の優しさに触れてはだめだ。これ以上、彼に甘えてはだめだ。
これ以上、彼を好きになったら――自分はきっと間違えてしまう。

「三橋ー」

自分の部屋なのにノックして入ってきた阿部が、脱衣所に脱いで忘れてきた三橋のズボンとシャツを持って部屋に入ってきた。

「ユニフォームとか洗濯物、今洗濯してるから。乾燥できるから朝までには何とかなるだろ。それからズボンかけておくぞ」

あんなところに脱ぎ捨てたらシワになるだろーと文句をいいながらもハンガーにかけようと、ズボンの裾をあわせて逆さまにした、その時。

チャリーン

銀色のかけらが、ズボンにぶらさがっていたベルトのバックルに当たって乾いた金属音を響かせ、カーペットの上に転がった。
しばらくの間、二人とも目を剥いてその金属片を見つめていたが、

「お、まえ、なあ〜〜〜〜!!」

その直後――真夜中近くの阿部家に、怒声が響き渡ったのだった。

 

 

その翌日から、三橋の家の鍵には長いチェーンをつけられ、常にカバンに繋げておくよう、「厳命」されたという。

 

「へんかな?」 「はんぶんこ」

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