「ボール!フォア!」

(やべっ、また出しちまった)

バットを放って一塁に歩き出す打者を、花井は苦々しい思いで見送った。
阿部を見ると、別段怒っている風もなく、ボールを返してマスクを直した。
マスクの内側の目はもう、次の打者に向けられている。

球速は、125以上は出ているとおもう。MAXで投げれば130近くはいくだろう。
ただ、なかなか狙ったところへ投げられない。
花井に対して阿部はストレートかスライダーか、内か外か、しか要求しない。
それでも半分は逆球になるし、今みたいにストライクにすら入らないことだってある。
そのストライクゾーンを9分割って。

(三橋ってつくづく、すげー奴なんだなあ)

最初会ったときは正直こいつは使えないなと思った。三打席勝負に負けて、三星との練習試合に勝ってからはその認識は変わったけれど、たぶん三橋自身が自分をダメピーだと思っているせいもあると思うが、普段、彼のすごさを実感することはあまりなかった。しかしこうしてマウンドに立ってみるとよくわかる。それは同時に、未だ心の底にあった「球威があるほどいい投手」という認識をも改めさせられた。いくら球速で三橋に勝っても、ピッチャーとしてどちらが使えるかなんて、わざわざ阿部にきくまでもない。

「ストラーイク!」

今度は入った、と花井はほっとする。
すごさを実感したのは、三橋のことだけではない。ピッチャーとして不安要素が多い花井や沖を相手に、何とか守備を形にしている阿部も並みのキャッチャーではなかった。花井にボール球を要求しないことを考えても、狙いを外すことや逆球になることも計算に入れて阿部が配球を組み立てていることは明らかだ。それに加えてキャッチの技術も高い。暴投に近い荒れ球も、まるで予測していたように伸び上がってキャッチする。三橋の時にはほとんどミットを動かすことすらないくせに、なかなかどうしてノーコン球の捕球にも慣れているらしい。

8回表を0点に押さえ、花井はほっとしながらベンチに戻った。

「お、おつかれ さまっ」

三橋がおどおどど声をかけてきた。ああ、とそちらを向くが、声をかけてきた本人はきょときょとしていて目を合わせない。何かいいたいことがあるのか?と待っていると、「た 球 はやい ねっ」と目をそらしたまま言った。
確かに三橋よりは速いが、別に自慢できる球速でもない。しかし、それをそのまま三橋に言うわけにもいかない。

「あー・・・でもコントロール悪いだろ」

なんとか無難な言葉を返すと、三橋はううんっ、とぷるぷると首を振った。

「そ、んなこと ないっ。阿部くんの ミット、すごく いい音 して たっ」

オレの 時は、あんな音、しない よ。
語尾が震えていた。口は笑おうとしてるが、目は今にも泣きそうになっている。花井は返事に困った。

「花井、次、打順だぞ〜」

その時かけられた、水谷の能天気な声に、花井は心底助かった!とばかりに、そそくさとその場を後にした。

 

 

 

監督と阿部の説得と、エースナンバーを与えられたことで、三橋は控え投手のことは納得したはずだった。
けれども、頭ではわかってはいても、感情ではなかなかうまく割り切れないでいるのかもしれない。
マウンドに立っている間中、ベンチからの視線が、痛い。
確かに投手は一番注目されるポジションではある。実際にマウンドに立つと、ブルペンや外野とはまったく違い、プレッシャーがのしかかる。
けれども、花井が気になったのは、そういう視線ではなかった。
言葉にするなら、「オレの場所、とられた」とでもいっているような、加えて嫉妬や羨望も混じっているような、めちゃめちゃ恨みがましい視線だ。

中学で孤立しようと3年間マウンドを譲らなかったことを思えば気持ちはわからなくもないが、それにしても腑に落ちない点がある。
試合でも、田島と組む時には、まったくそんな視線は感じないのだ。ベンチを見れば、三橋が投げたそうな顔をしてボーッっとこっちを見ているだけだ。それが、キャッチャーが阿部に代わった途端に、あのすさまじい視線が首筋に突き刺さる。実は同じ視線を、投球練習の時にも浴びることがある。もちろん、阿部と組んでいる時に限って、である。本人に自覚はないらしいので余計にタチが悪い。

(譲りたくないのはマウンドじゃなかったのかよ)

そういえば、花井や沖は試合で阿部と組むことがあるが、三橋は練習の時しか田島とは組まない。
田島のキャッチャーとしての経験を積ませるためにも、試合で少しでも三橋と組ませた方がいいのではないか、と、練習試合のバッテリーのローテーションの話の時に監督に言ったことがある。そうしたら、監督は、

「本当はそうなんだけどねぇ〜」

と困ったように笑って言っただけだった。

本当はそうしたほうがいいけれどそうしないというのは、阿部か三橋のどちらかがごねているということだ。いや、今の状況を考えれば、ごねているのは三橋か。

別にマウンドだろうと阿部だろうと、とる気はない。まったくない。
ネクストサークルで打順を待っている今もチラッチラッとこちらを気にしている奴に、声を大にして言ってやりたい。
自分ですらこれだけ居心地が悪いんだから、気の弱い沖などは生きた心地がしないのではないだろうか。
午後の試合は三橋が投げることになっている。あんな状態で大丈夫なんだろうか。

そして花井の心配は、見事に的中してしまった。

 

 

 

もうすぐ午後の試合が始まるというのに、阿部も三橋も帰ってこない。
試合が終わってから、いやたぶん試合中からか、二人の様子はおかしかった。
いつも当たり前のように一緒にいるのに、この時は妙によそよそしい雰囲気だった。
いや、阿部はいつも通りだったと思うが、三橋が阿部を避けていたようだった。
話しかけても三橋がそんな態度なので、阿部もムッとしたらしく、移動中も離れて口もきかず――グラウンドに到着してウォーミングアップの時にふと気がついたら、三橋がいなくなっていた。

チッと舌打ちして、探してくる、と出て行った阿部もそれっきり、帰ってこない。
さっきまでの雰囲気から察するに、きっと三橋が泣いて、阿部が怒っているに違いない。
かなり関わりたくない状況だったが、もうすぐ試合が始まるからそうも言ってはいられない。
花井は仕方なく、監督に一言断ると、勝手の知らない敷地内を探し始めた。

それほど遠くは行っていないはず、と適当に探していると、聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「テメーいいかげんにしろよ!」

いたいた。声を頼りに進むと、潅木の間から二人の姿が見えた。
やっぱり収拾つかなくなっているな。ため息をついた花井が割って入ろうと息を吸い込んだ瞬間。

「お前が好きだって何度も言ってるだろ!」

阿部の言葉に、花井はおもわず息を止めてしまった。

「オレの ことは、ど、同情、だったんで しょっ」
「違う!」

二人に気づかれないように細々と息を吐きながら、花井は混乱していた。
何なんだ、この会話は。

「だって、あべく、すごく、た 楽しそうに、タマ、捕ってたっ」

べそべそなきながらも、三橋の言葉には恨みがましい口調がにじんでいる。
というか、三橋が阿部に反論するところなんて見たことないぞ。

「オレがいつ楽しそうなカオなんかしたよ!?」
「して たっ!」

普段の二人からはとても想像できないが、これはれっきとしたケンカだ。
阿部と、三橋がケンカ・・・。
オレは夢をみているのか、と花井は思った。

「オ、オレ の 時より う、嬉しそう だったっ!」

勢いよく涙を飛ばしながら、三橋が言い募る。涙って飛ぶんだな。
なんて感心している場合じゃない。

お前らケンカしているんだよな?
だったら何だその手は。何でそんなにしっかり手を握り合っているんだ。
ケンカするか仲良くするか、どっちかにしろよ。

花井の心中など知る由もなく、言い争いはますますヒートアップする。

「あべく、は、オ、オレなんか より、は 花井君の方が いいん でしょっ」

いきなり名前をだされて、花井は顔をひきつらせた。

(おいおいおいー)

ますます入っていきづらくなってしまった。できればこのまま放って立ち去りたい。
だが試合直前の今、そういうわけにもいかなかった。

「誰もンなこと言ってねーだろ!」
「お、オレは、ダメピーだ し、花井く、や沖く、の方が、あべく、に、お・・・お似合い、だ、しっ」

左手でぐしぐしと涙を拭っている一方で、右手は阿部の手をしっかりと握って離さない。

お似合いってなんだよお似合いって。
ああもう帰りてー・・・。

「だから・・・ッ!」

これ以上どういえばいいのか、さすがに阿部も困り果てたようだった。
どうでるのかを見守っていた花井は、次の瞬間

(げっ!)

思わず声をあげそうになってしまった。
なんと阿部は三橋を引き寄せて――そのまましっかりと抱きしめたのだった。

「オレにはお前だけだって言ってんだろ!どうしたら信じてくれんだよ!」

(何やってんだよ阿部!?)

花井は心の中で悲鳴をあげたが、三橋には効果があったらしい。
抱きしめられて、ちょっと心が動いたようだった。

「・・・ほんと に?」

腕の中でおとなしくなりながら、三橋が小さな声で聞いた。

「おお。お前以外の奴なんて考えらんねーよ」

阿部の言葉に、三橋は顔を上げた。プロテクターをつけた胸に抱きこまれたせいか、汚れが頬にくっついているが、本人はお構いなくひたむきな瞳を阿部に向けている。

「オ、オレもっ、あべくんだけ だっ・・・あべくんが いいん だっ」
「オレのこと、信じられるか?」
「しんじ たいっ」

すっかりきらきらした目になった三橋の頭を阿部は抱き寄せた。花井がいる場所からだと、二人の身長差のせいか、阿部が三橋の額にキスしているみたいにみえた。
すでに魂が抜けかけている花井の目の前で、二人の睦言、いや仲直りの会話は進んでいく。

「ならもう、オレが誰と組んでもつまんねーヤキモチなんかやくんじゃねーぞ。オレはお前のキャッチャーなんだからな」
「うんっ」
「ちゃんとお前のこと、好きだからな」
「う、オ、オレも、あべく、すき・・・」

二人は抱き合ったまま、額をくっつけて見つめあった。
もうやめてくれ、と叫びたい花井に追い討ちをかけるように、さらなる衝撃が彼を襲った。

(・・・・・!?)

口が叫び声の形に開いたまま、呼吸が止まった。

い、今、涙を口で吸ってなかったか・・・?
顔汚れてたぞ。汚ねー・・・ってそういう問題じゃない。
両腕がふさがっていたから?いやいやいや、普通やんねーだろ!

たぶん見間違いだろう。見間違いに違いない。見間違いだと思いたい。

もうそれ以上はとても見ていられなくて、花井はよろよろとその場を離れた。

なんかもう・・・力ぬけた。やべぇ。
次の試合、西広に代わってもらおうかな・・・。

花井が戻ってしばらくしてから、先刻までとはまるで違う雰囲気で戻ってきた二人を遠目に眺めながら、今後この二人のいさかいには金輪際かかわるまい、と彼は心に誓ったのだった。

 

「あと、もう少し」 「見渡す限り」

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